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205号室に暮らした 春編

#時は過ぎて

引っ越しを決めたのは家が傾いたからだった。何だか当然のように書いてしまったが、本来ならもっと違う理由で越したかったものだ。

大学を卒業してしばらく、就職浪人の日々が続いた。アルバイトとハロワ通いの日々。いわゆる就職氷河期の時代。80社受けてようやく決まったという先輩の話を聞いていたから、半分は諦めていた。卒業した時の所属していた学部の就職率は50%を切っていたと記憶している。公務員になる人が多い大学だったから、民間企業を受けると「何で公務員にならないの?」と聞かれることもあった。そんなこんなで実家の仙台に帰ることを決めた。

引っ越す理由としては、むしろこちらの方が正しいのかもしれない。しかし悩みの渦中にいる時は、帰るタイミングさえも決められなかった。家が傾いている、というのは「もう出ていけ」ということだったのだろう。

そもそも傾いたのには理由がある。前年の秋のことだ。耐震対策と言い張って、大家が謎のパイプを外壁に何本か括りつけていったのである。何本あったかまでは覚えていないが、かなりの数をしかも建物の片側だけにチェーンで巻き付けるようにして、釘か何かで止めただけ。二階まで届く長さのパイプの足は地面についておらず、それを目撃した時に「これはまずいのでは?」と思った。

おそらくこの時すぐに引っ越せばよかったのだ。なぜ冬を越してしまったのか。雪を被り凍り付いたパイプは重みを増し、とうとうアパートが傾き始めた。最初の異変は部屋の中のドアが閉まらなくなったことだった。すぐさま理由は分かった。そのうち外階段に罅が入って、これが決定打だった。

決めてしまえばあとは早かった。一体何を悩んでいたのだろうとばかりに。仙台に帰って半年後くらいには仕事も決まった。

ところで、引っ越す前の日のことである。以前から妙だなと思っていた階下の部屋がゴミ屋敷だったことが発覚した。事もあろうに、今まで部屋の中にため込んでいたゴミ袋を外に出し始めたのである。あっという間に階下の壁はゴミ袋で埋まり、見えなくなった。

向かいの食堂から眺めたその光景は今でも忘れられない。荷物はすべてまとめていたから、夕食は食べに行こうと決めていた訳だが、まさかこんな景色を見ながら食べることになるとは思ってもいなかった。食堂のおばさんに「引っ越し、明日でよかったね」と言われたような気がする。それでも唐揚げ定食は美味しく、AMラジオからはスガシカオが歌う「夜空ノムコウ」が流れていて、それは記憶をもたらす一曲になってしまった。何十年と経った今でも、春になると思い出してしまう光景。混沌として、それでもそこに在るものを受け入れながら、目の前の景色の先に何を見ていたのだろう。

アパートは疾うに取り壊されて、現在はマンションが建っているという。


付記
就職氷河期がどんな時代だったのかはおろか、そんな時代があったことも忘れられていると気付いたのは、職場の20代の子に「どうして派遣なんですか? 正社員めざせばいいのに」というニュアンスのことを言われたからである。何社受けても見つからないということが感覚として掴めないのは無理もない。昨年、この職場を離れざるを得なくなり、「次の仕事を」と面接を受けたのだが、そのうちのひとつの会社でバブル全盛期を経験したであろう世代の担当者に当たった。「ロスジェネってリーマンショック?」「大学出たのにすぐ就職出来なかったの?」と根掘り葉掘り聞かれて、正直具合が悪くなった。時代というのは過ぎれば忘れられていく。ボロアパートに流れていた空気も記憶の中で消化されて、何もなかったことになってしまう。忘れたからといって別段どうということでもないのだが、せめて消えないうちに文字に起こすのも悪くはないかもしれない。それだけの理由で、この日記とも記録ともつかない駄文を綴った。しかし、思うことだが、あんなに大きな時代の波に吞まれたのに、未だに取り残されたまま日々を過ごすひとは少なくないのではないだろうか。これは氷河期に限ったことではない。憂いの感覚を、美しさとまでいかずとも何らかの形で昇華しなくては押し潰されそうな日々を、やはり忘れるわけにはいかないのである。あの頃はたぶん、輝かしい希望などなくても良かった。諦念を抱えながら、窓から射すただの光だけが日々を支えていた。


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