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大学にはびこる量産型人間がいまだに許せていないんだ

大学生の頃、キャンパスを歩くたびにずっと思っていたことがある。

「なんでこんな量産型人間たちが我が物顔で生きているんだ?」

僕はずっと人生を通して「人と違う」ということはそれ自体が大きな価値だと思っていた。何か根拠があるわけではない。ただなんとなくずっとそう思っていた。

例えばここに一本の道がある。その道のどこかに落とし穴がある。しかしその道を多くの人が通らなければいけない。
その時に一番価値の高い行動は「誰の足跡も付いていない場所を通る」ことだと思っている。そうすれば安全が確認されたルートが1つ増えるからだ。

しかし現実はそうではない。ほとんどの場合賞賛されるのは、すでに安全が確認されたルートを通ってさっさと先へ進んでしまうタイプの人間たちだった。

大学生くらいまでの僕の目には、この世の富は全て彼らが牛耳っているように見えていた。

彼らは常に同じような服を着て、同じような表情で笑って、同じような内容の会話をして、同じような人間と共に過ごしていた。新しさや挑戦といった事柄とは無縁で、いつも誰かが踏み固めた安全な道を歩いていた。

今でも僕は、彼らの価値を心の底で納得できていない。「普通の人々が世界を支えている」「全員が改革者になってしまったら世界は崩壊する」そういった言葉の理屈はわかる。

でもそれなら、新しい世界を切り開こう、誰も歩いていない道の一歩目を踏み出そう、そういうことをしている人々が白い目でみられるのが全く意味がわからなかった。今もわかっていない。

「起業家とかは評価されているじゃないか」という人もいるかもしれない。でもそれは違うんだ。その評価は「社会的に成功したこと」への評価であって「新しいルートに挑戦したこと」への評価じゃない。

もしそうなら、散っていった挑戦者への拍手も盛大であるはずだから。

大学時代の僕の周りも、華やかであったはずだから。

いまだにそれが許せていない。だからこそやりたいことがある。

「クリエイティブな人間こそが最高の価値ある人間である」と世界に認めさせたい。

人と仲良くなれる人間でも、競争に勝てる人間でも、仕組みを理解できる人間でもない。

新しい物を作り出せる人間こそが世界最高であると、認めさせてやる。

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