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性別二元論の善と悪。

ジェンダーにまつわる議論が盛んです。ネットニュースでも、ジェンダーのキーワードに関するニュースがない日は少ないくらい、盛り上がりを見せています。

それらの論調の中には、ジェンダーレスやジェンダーフリーの潮流について解説したものもありますが、圧倒的に性的マイノリティに関するものが多いように感じます。

ジェンダーについて語ったり、議論したりする場合、

①従来の性別二元論を重視する考え方
②性的マイノリティの存在を擁護する考え方(あくまで性別二元論)
③ジェンダーレスやジェンダーフリーの考え方(性別二元論とは距離を置く)


の3つがあると思いますが、メディアなどで脚光をあびるのはほぼほぼ②のスタンスが多く、③の存在感はまだまだ息をひそめているといっても過言ではありません。



①と②の関係をあえて模式的にとらえると、従来は生物学的なジェンダーのあり方が固定化されていたところ、時代の潮流の中で性的マイノリティの存在を看過できなくなってきたので、一定のハードルを設けて例外的にジェンダーを飛び越えることを認めるという図式。

だから、①のスタンスからすると、②の存在は本来は認められないポリシーではあったものの、時代の流れに従ってあえて例外を認めることで、いみじくも「性別二元論」は維持できるという共通の利害をもっているともいえます。

それからすると、③の存在はまったく特異です。程度の幅やポリシーの色彩は異なるとはいえ、そもそも「性別二元論」の立場に立たないのが立脚点というわけですから、①や②の立場からするとある種の秩序破壊を仕掛ける暴挙のような存在に映りかねないのです。



時代はまだ①②と③との本格的な抗争という段階にはいたっていませんが、いずれ部分的にはその傾向が広がっていくことは間違いなく、私たちが気づかないうちに社会に小さくない溝ができていく可能性は決して低くないと感じます。

性別二元論には、善と悪の二面性があると思いますが、少なくとも③のようなスタンスがあることを社会的に共有することもまた、ジェンダー全般についてより多様性を認め合うことの第一歩ではないでしょうか。

個人的には、①と②の対立構図からある種の(部分的)融和への次は、①②の秩序の緊張関係から③のスタンスを(ある程度)共存共栄する姿こそが、そもそもジェンダーはグラデーションだといわれる人間社会の理想だと感じています。



そんなのは絵に描いた餅であり、まったくの絵空事的な理想論だという声も聞こえてきそうですが、異なる理想を持ったり、異なる現実を生き抜く人たち同士が、少しでも仲良く発展していくこそが、究極的には人間に課せられた使命なのだと思います。

そんな日を迎えることをいい意味で夢見て、清々しく前向きにリアルな毎日を生き抜いていきたいものです。

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多様性を考える

学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。