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映画「片袖の魚」を観ました。

映画「片袖の魚」を観ました。昨年公開された話題のショートムービーですが、東京でも大阪でもタイミング悪く映画館には足を運べなかったので、「THEATRE for ALL」で視聴しました。もちろん映画館のような臨場感はありませんが、場所や時間を選ばずにどうしても観たい映画をチェックできるというのは、本当に便利な時代になったと思います。


「片袖の魚」といえば、東海林毅監督の意向でトランスジェンダー当事者が主演をつとめたことで話題になりましたが、最初から最後まで違和感なくひかり/光輝役のイシヅカユウさんの魅力に引き込まれる作品だといえると思います。

トランスジェンダーの邦画作品としては「息子のままで女子になる」などがありますが、こちらはある意味ドキュメンタリー映画的な作品であったため、「片袖の魚」は純粋にストーリーを当事者でもある俳優が表現者として演じきっているところに、映画としての奥行きが感じられるといえるかもしれません。


イシヅカさんは、「片袖の魚」の公式ホームページで以下のようにコメントしています。

ひかりと私はトランスジェンダーという点では近い境遇であるけれど、全く違う人間です。
人は、他人の持つある特性で一括りにしてしまうことがあります。

しかし一人一人の人生の本当の個性は、大雑把に一括りにしても見えないところにこそあるのです。

お芝居という新しいことに挑戦し、ひかりという、自分と近い、でも確実に違う人を演じる中でそう感じました。


冒頭の水槽のシーンから、声もしぐさもオーラもまさに女性のたたずまいのひかりが映し出されることで、観る人は自然に物語に引き込まれます。作品のコンセプトから、主人公がトランスジェンダーであることは共有されているわけですが、違和感なく溶け込めているひかりの姿に多くの人は自然と感情移入していくことになります。

それでも大きな不安と葛藤の中で振る舞い暗中模索の中で日々を過ごしているひかりに、そもそものトランスジェンダーとしてのあり方の難しさと自己矛盾のリアルを否が応でも感じ取っていくドラマの展開。ここにいわゆる主義主張の込められた作品にはない純粋な生きざまの投影を見ることができます。


映画のヤマ場となる地元での同級生との飲み会のシーン。身体的では男性でありながら心は女性である主人公が、学生時代に同じサッカー部で過ごした仲間たちと今のありのままの姿で会う場面は、トランスジェンダー当事者が堂々と生き抜いていく上での希望と葛藤、勇気と困難がずばり凝縮された局面だといえるでしょう。

ひかり(光輝)を待ちあぐねて温かく迎え入れる仲間たちの姿、引退試合でみんなのサインを寄せ書きしたサッカーボールを片手に思い出話にひたる時間、ひかりの過去と現在について聴きながらつとめて明るく理解しようとする同級生たちのリアル。それぞれが、暑苦しい中にも友情や情熱がほとばしる男の顔を見せる居酒屋の一室。

でも、ひかりの受け止めは、「最悪。二度と会うかっちゅーの」(行きつけのバーでの場面)。決して当事者しか分かりえない感情がぎっしりと詰まった心情をあまりにもリアルに描ききっているところに、作品の魂が宿っているように感じます。トランスジェンダーであることの矛盾と本質は、いかなる理屈や理論を積み重ねるよりも、この状況描写に勝る表現はないといえると思います。


そんなひかりの心情をダイレクトに理解できる人もいれば、にわかには共有できかねる人もいるでしょうが、性別二元論が支配する社会の中でトランスジェンダーの存在は、決して好意をもって受け止めて笑顔で迎え入れるだけではありのままに存立しえないという矛盾を、たしかに問題提起しているのではないでしょうか。

あえて主人公ひかりに多くを語らせないドラマだからこそ、今の社会でマジュリティに位置づけられる人たちの視点を自然に盛り込んだ構成の中で、確実に勢いを増して変化する時代の流れとそうはいっても本質はみじんも変わらない社会の構図を、だれもがどこかに自分を投影できるようにリアルに感じ取ることができる作品。

トランスジェンダーの当事者やジェンダーのテーマに興味や関心のある人はもちろん、ふだんはあまりそれらに触れたり考える機会がないという人こそ、ありのままの視点から一度は観てみる価値がある作品だと痛感します。きっと何かをグッと感じとる濃厚な34分間になるのは間違いないと思います。

学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。