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『ノンバイナリーがわかる本』を読んで

エリス・ヤングの『ノンバイナリーがわかる本』

ジェンダーをめぐるテーマが各方面で話題になるご時世ですが、ある意味もっとも注目されつつも、もっとも理解が難しいのは「ノンバイナリー」かもしれません。

出生時に割り当てられた性別にある種の違和感があるものの、単純に男から女、女から男に移行したいと考えるトランスジェンダーではなく、既成の「性別」という概念にとらわれずに、社会や制度の中を浮遊するような存在。

日本では「Xジェンダー」と呼ばれることも少なくありませんが、典型的な性別違和ではない分、社会的な理解も浸透しにくく、ともすれば存在自体が認識されづらいのが実態かもしれません。

ノンバイナリーについては日本では本格的な研究書や実務書はほとんどありませんが、今年1月に邦訳が出版されたエリス・ヤングの『ノンバイナリ―がわかる本』(明石書店)は、このテーマに関心を寄せる人には必読の本だといえるでしょう。

本書の構成(目次)は以下の通りです。


第1章 ノンバイナリーとジェンダークィアについての序説
はじめに
私たちのこと(私たちは誰でしょうか?)
私について(私は誰なのでしょうか?)
用語の解説
ジェンダーについて考える
性vsジェンダー
ジェンダーとジェンダー・ヴァリエンスの理論
ノンバイナリーとしての自己表現
ノンバイナリー、ジェンダークィア、「他人化」
人口統計
イギリスとそれ以外の国について
なぜ人口統計情報が重要なのか
エクササイズと話し合いのポイント

第2章 ジェンダーと言語
はじめに
言語におけるジェンダー
名詞クラス
様々な言語のジェンダーの使い方
言語の変化と代名詞
They/them/their
新代名詞
おわりに
エクササイズと話し合いのポイント

第3章 グローバルかつ歴史的な視点
はじめに
ジェンダーと性についての理解の変化
ジェンダークィアの歴史
世界の代替的なジェンダー・カテゴリー
おわりに
エクササイズと話し合いのポイント

第4章 コミュニティ
はじめに
より広いLGBとトランスジェンダーのコミュニティの中でのノンバイナリー
より詳しいアイデンティティのラベル
すべてのノンバイナリーの人はトランスと自認しているのでしょうか?
ノンバイナリーとジェンダークィアの人々、そしてフェミニズムとトランス疎外について
ノンバイナリー・コミュニティにおけるインターセクショナリティ
エクササイズと話し合いのポイント

第5章 社会の中で
はじめに
カミングアウト、移行、シスジェンダーの世界でジェンダークィアとして生きること
パッシング passing
デート、恋愛、セックス
セックスと魅力
ノンバイナリー・コミュニティの中でのセクシュアル・アイデンティティ
職場でのジェンダークィア
学校でのノンバイナリー
あなたへの提案
エクササイズと話し合いのポイント

第6章 メンタルヘルス
はじめに
言葉の定義と頭字語
メンタルヘルスとジェンダーの相互作用
私のメンタルヘルスとジェンダーの体験
ノンバイナリーの人に共通する心の病の経験
過剰診断と精神疾患としてのクィア
違和 dysphoria
マイノリティ・ストレス
結論と提案と資料
関連情報と書籍
エクササイズと話し合いのポイント

第7章 医療
はじめに
用語解説と頭字語
私の体験と私自身について
ノンバイナリーの人すべてが性別適合治療を求めるわけではない
治療への道のり
情報への限られたアクセス
GIC(ジェンダー・アイデンティティ・クリニック)への紹介
GICでの治療
初診予約までの待ち時間と、次の予約までの間
治療の拒否や保留
ノンバイナリーによる自己偽装
性別適合治療の実際
根拠の薄い社会的通念
ノンバイナリーのヘルスケア
結論と提案と資料
個々の専門医への実践的提案
関連情報
エクササイズと話し合いのポイント

第8章 法律
はじめに
法的承認と2004年ジェンダー承認法
法的保護と2010年平等法
ノンバイナリーなジェンダーに関する各国の法律
エクササイズと話し合いのポイント

第9章 将来へ向けて

第10章 参考文献
トランス、ジェンダークィア、ノンバイナリーの人のためのリソース
ノンバイナリーの人々による一般読者向けのリソース
雇用主、サービス提供者、研究者、医師のためのリソース
本書で参考にした文献


メインテーマは第3章~第5章

本書で取り扱うテーマや分野は幅広く、ノンバリナリーの概論から言語、歴史、社会、医療、法律など多岐に渡りますが、あえて中心となるテーマを選べといわれたら「第3章 グローバルかつ歴史的な視点」「第4章 コミュニティ」「第5章 社会の中で」が挙げられるでしょう。これらの章では、ノンバリナリーの歴史と成り立ち、社会的な構造、具体的なコミュニティーにおける解説と事例が豊富に記述されています。

わずか90ページ足らずの中にノンバイナリ―の研究史ともいうべき内容が凝縮されていますので、一冊を読む時間がない人はまずはこの3つの章を素読すれば著者が意図する概要を十分につかむことができると思います。

これらのテーマの中から、私がとくに注目したいと思ったトピックをアトランダムにまとめてみます。


私が注目するトピックをピックアップ

ジェンダークィアであるとオープンにしていると、どこか超越した魅力的でエキゾチックな人だと思われることがよくあるのです。デヴィッド・ボウイ、グレイス・ジョーンズ、ティルダ・スィントンなどの演じる姿と実際のアイデンティティとを切り離して考えることはできません。

このような事例は、歴史上も少なからず登場します。自分と異なる性の特性を持つ人は社会から疎外され孤立するのが通例ですが、ある時代、ある文化、ある前提のもとでは、ある種の両性具有性が、世俗を超越した神聖な異次元の力を宿す存在として、恐れられ、崇められ、頼られてきました。著者の認識から、その現代的な典型例が紹介されているのは、とても説得力を感じます。


ジェンダーの概念は、古代からヴィクトリア朝時代まで変化を繰り返し、現在の「生物学的性=ジェンダー」というモデルが固まった。ラカーの理論が示唆しているように、大規模な社会的、経済的変化に伴って、男女間の社会的分類が取り返しのつかないほど変わった。

ヴィクトリア朝時代までに現代のジェンダー概念が定着したというラカーの説が紹介されますが、この仮説への著者のコメントは多くの示唆に富んでいます。少なくともジェンダー概念自体が可変的であり、社会的・経済的な変化に影響されて変容したきたという認識は、無理なく共有できる論点だと思います。このような認識は、著者のノンバリナリーへの理解の底流に終始一貫して流れているといえるでしょう。


ジェンダーとは本質的に性と因果関係があって、不変のものであるため、性の間の境界線を超えることは許されないという規範的な考えは、18世紀と19世紀になるまで普及することのなかった、医学的・生物学的な本質主義の学派に基づいているのです。

ジェンダーの境界線は不動不変のものであり、それを超えることは社会的にも文化的にも規範的にも許されないという「常識」は、18~19世紀以降の歴史しか持たず、とても人類史始まって以来の真実とはいえません。本来的には、ジェンダーとセックスとは大いに別次元の内容を含むととらえるのが自然だといえるでしょう。逆にいえば、人類の歴史においては、「性の間の境界線を越えること」は、多数派とはいえず公然とも認識されないにせよ、決して絶対的なタブーともいえない出来事でもありました。


男女間に境界線を引いてはいても、長年にわたって人間社会は、男女どちらかのカテゴリーにも入らない人がいることに、気がついていました。第三の性の起源は確かではありませんが、その特徴は、「女性」と「男性」のそもそもの概念化のされ方に依存しています。

私たちは、「第三の性」があるのかないのか、あるとしたらどのようなものかという発想をしがちですが、それはそもそも「男性」と「女性」の二元論が本源的であり普遍的であるという前提に依拠しています。逆に、そもそもジェンダー概念自体があいまいで可変的なものであり、ある意図のもとに「男性」と「女性」が作られたという仮説も成り立ち得るのです。そのような認識に立つならば、そもそも「男性」と「女性」の二元論こそがある種人為的に創造された概念であり、それ以前の原始的な性の概念は「第三の性」というよりは、むしろ「第一の性」とでも呼ぶべきものかもしれません。


生物的な性に基づいてジェンダーを決めるのは、実際に生きている人々の経験を否定することになる。トランスの人たちは、従来のジェンダー規範に適合しない、あるいはできないために、シスジェンダーの女性が直面する暴力に近い、さらにはもっとひどい暴力にさらされる。

ジェンダーの境界線はまたいではいけないという規範に加えて、シス男性はシス女性よりも社会的に優位性を持つという仮説が共有される世の中では、シス女性はつねに理不尽な暴力性にさらされますが、トランス女性はジェンダー規範を犯してなおかつ女性性を帯びることで、二重の暴力性に苛まれることになります。「実際に生きている人々の経験」をあたかも架空の出来事のように認識する手法に違和感を持たない性別二元論は、私たちが気づかないうちに自動的に暴力性が発動される装置をはらんでいる事実を虚無化するのです。


家父長制とは、ジェンダーの二元論を使って、(シスジェンダー、白人、ストレートの)男性以外のすべての人を抑圧する制度なのです。ジェンダークィアとノンバイナリーの人々が実在していることは、ジェンダー二元論、つまり家父長制への挑戦でもあります。

ノンバイナリ―などの存在が社会性をもつことで、家父長制が有する抑圧性を変革するための問題提起を起こすことができるという意欲的な仮説。ジェンダー二元論≒家父長制の抑圧性に挑戦するためには、家父長制の担い手の真逆に位置する彼らが実在することへのリアリティーがもっともっと高まっていかなければならないでしょう。おそらく日本人がこの種の議論にあまりリアリティを感じないとしたら、それは私たちの歴史的文化的背景が占める要素が少なくないようにも感じます。


職場は、慣習的なジェンダー役割が強化できる最後の砦。男性はシャツの裾をズボンに入れなくてはならないのに、女性はそうではない。女性はスカートをはくように求められていると考える人も多い。服装の規約は、職場環境によって支配的な社会構造が助長される。

職場におけるジェンダー区分にしたがった服装規範こそが、古典的なジェンダー役割が強化されていく仕組みの最後の砦だという認識。学校教育における服装のジェンダー規範が軒並み多様化のベクトルに向かう中で、この表現は確かな信憑性を持つように思います。服装こそがジェンダー役割を拡大再生産しているとしたら、職場に影響力のある一人ひとりの意思と努力が、これからの時代を切り拓くといえるかもしれません。


不変で厳格な男性と女性というバイナリーなジェンダー観、生来の体の部位や体型と結びつく先天的なものだとの考えが、それに当てはまらない人に衝撃を与え、規範から外れた人々に向けられる主力社会の敵意によって社会から疎外され、それにまつわるストレスがいくつも起こる。

男性は身体が大きく体力がある、女性は身体が小さく体力に劣るというステレオタイプな思い込みが、従来からさまざまなハラスメントを生み出し、多様性が否定されてきました。この構造はまさにマジョリティによるマイノリティの抑圧であり、どの時代においてもマジョリティの論理という以外の正当性を帯びている確証は得られていません。ストレスへのケアが社会的な命題となる時代、マイノリティの個性を切り捨てる負の意味での効率主義は、いかなる将来性も期待できないといえるのではないでしょうか。


ノンバイナリーの人は、ジェンダーを身体と切り離して考え、ジェンダーを外見ではなく話し方や行動によって表現しているので、自分のアイデンティティに近いと思える身体は存在しないと考え、身体のどこかを変える意味などないと思うかもしれない。

いわゆる性別違和の人は男性から女性へ、女性から男性へと身体自体を移行させたいと願うのに対して、典型的なノンバイナリーの人は身体のあり方そのものには自分自身のアイデンティティーを見い出さず、あくまで「ありのままの自分」であることが違和感なく本来の姿だと考えることから、つねにジェンダー表現と身体性が完全に一致していなければならないと強制する社会のあり方こそに違和感を覚えるという仮説。まさにノンバイナリ―のノンバイナリ―たる本質を得ているように思います。私たちはこのようなノンバイナリナリーの存在をどのように理解し、どのように手を携えながら、あるべき将来へと邁進していくのでしょうか。

学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。