振り袖はもともと若い男性のアイテム?
成人の日ですね。朝から綺麗な振り袖に身を包んだ新成人たちが街中を行き交い、新年の凛とした空気にひときわ輝く彩りを与えるワンシーンは、いつの時代にも見る人に高揚感と爽快感を与えますね。特に今年は新年早々、心を痛める話題ばかりが続いているため、ハレの日をみんなでお祝いするという風習がいつになく身にしみるように感じます。
新成人といえば、思い思いの色模様をあしらった振り袖姿の女性たちと、新しいネクタイを締めて背筋を伸ばしたスーツ姿の男性たちが目に浮かびますが、最近は男性でも派手な羽織袴姿を身に着ける人もいますし、もちろん女性でもスーツ姿で成人式に参列する人もいます。それぞれ個性があっていいと思いますが、やはりひときわ目をひくのは何といっても華麗で絢爛豪華な大振り袖でしょう。
結婚式や披露宴の主役は新婦(花嫁)ですから、ヘアメイクやお色直しにも力が入りますし、朝から晩までメインの被写体として追いかけられる一日を過ごすことになります。文字通り一生の思い出としてたくさんのメモリアルショットが残されることになりますが、一生の一度の晴れ姿を両親や親戚や同級生にお披露目する成人式における振り袖姿も、それに似たものがあるといえるでしょう。
以前もNOTEで書いたことがありますが、そうした女性たちの姿を横目で見ながら、ほんのり「うらやましい」と思う新成人(同級生)の男性もいる のも事実です。新聞やテレビでの成人式における被写体としての主役はあくまで振り袖姿の女性たちであり、男性はどう転んでも振り袖に袖を通すことはありませんから、好奇心も含めてそれこそ「一生に一回くらいは」と内心思う人も意外と少なくないようです。
ところが、性社会文化史研究者の三橋順子氏の『歴史の中の多様な「性」』(岩波書店)によると、和装における振り袖はあくまで未婚の女性が晴れの日に着用するための衣装であり、既婚の女性が着用するのがタブーとされる以前に、そもそも男性が袖を通すといったことは歴史文化的に議論の対象とすらならないといった私たちの“常識”は、必ずしも正しいとは限らないといいます。
三橋氏によると、鈴木春信の春画に登場する大振り袖姿の人物が若い男性であったことに見られるように、江戸時代初期においては振り袖は若衆(元服前の少年)が着用するのがもっぱらであり、前髪をおいた結髪といったヘアスタイルも含めて、若い女性との見た目における違いはほとんどなかったといいます。むしろ、江戸時代初期の華麗で豪華な振り袖ファッションをリードしたのは若衆であり、実際にはそれを若い女性たちが真似をしていった経過をたどるのです。
このような見解は、私たちが子どもの頃から植えつけられた社会通念とはすぐには馴染まないかもしれませんが、以前にもご紹介した卒業式における女性の袴姿の成り立ちと歴史的な経緯を振り返るなら、決して無理のある理解でないどころか、むしろ一定の身分秩序のもとに現在以上に多元的で多様な文化習俗が並立していた江戸時代のファッションのリアルな生態をしめしているといえるように思います。
ひるがえって、女性が「振り袖はめんどうだから地味なスーツで」と主張しても根本的な問題は起こらないのに、なぜ逆に男性が「どうしても振り袖が着たい」と主張したら周りはドン引きして受け入れられないのでしょうか。冷静に歴史の流れを振り返ると、おかしいのは健気に振り袖に興味を持つ男性なのではなくて、むしろ確たる根拠もなく頑なに旧態依然たるイメージを同調圧力で押し付ける今の日本の社会通念なのかもしれません。
これはあくまで私の予測ですが、男性の振り袖が肯定的に受け止められるカルチャーは、それほど時代を経ることなく私たちに訪れるような気がします。平安貴族もそうですが、男性は男性なりに、そもそも華美で華麗な和装姿が似合うのが日本の伝統文化であり、むしろ明治以降の西洋化の流れに一元化し過ぎたことの反動は、静かに動きつつあるのも間違いないからです。
きっとごく近い将来、颯爽と振り袖を着こなす男性が何の違和感もないどころか、その独特の美意識を打ち立て始める時期がくることでしょう。だったら、多感で好奇心旺盛な今のうちに、なんちゃって振り袖姿をたしなんでもいいかもしれませんね。若者は、本来時代を追いかけるより、時代をつくる存在だと思いますから。