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【ピアノ】先生は録音が大嫌いだと言っていた。


2年前に初めてYoutubeを開設し、マイペースで動画撮影をしている中で、昔、先生が何氣に言った「大嫌いな録音」という言葉を思い出す。

もちろんこれは「こういう録音がきらいです」という意味ではなく、「録音そのものが大嫌い」ということなのですが。

先生がこのことを言われたときは、ふーんそうなんだくらいにしか思わなかったけど、最近、ここには結構、深い意味があるんじゃないか・・・と思う。
本人に聞いたわけでもないので、私の憶測でしかないのですが、最近思うことを書いてみたい。

最近、「生演奏の魅力」というものに、改めて思いを馳せることが増えてきた。
いや、動画撮りに行くのも楽しい。それはそれで夢中になる。自分のベストを尽くしたいと思う。

ただ、その一方で、ストリートピアノを弾きに行ったり、聴かせて頂いたり、上手い下手関係なく「その場限りの演奏」をお互いに共有し合う嬉しさを感じる生演奏の魅力に、改めて感じるところではある。

そしてその魅力とは、その時その時の生の演奏、その一回限りの、一瞬の感動の経験を、掴まえておかないでいることで、逆に永遠性が宿るというような感覚。

そして録音していて私が正直に思うところは、「録音した途端になんだかつまらないものになってしまう」という感覚が、動画撮影に夢中になる一方でなんとなく分かる感覚で、これが、先生の言葉から感じるものを考えてみた時に、出てきた感覚でもあった。

「一瞬の永遠性」とでも言うか、そしてそれは録音することで逆に失われていってしまうという感じなのかもしれない。
飽きるということとはまた別で。

・・・そしてこういったことに思いを馳せるようになったのは、いつも見ているマドモアゼル愛先生の動画の影響もあると思う。
心や目に見えないものを大事にする感覚。

その時感じた感動を、心の中に収めておくことで、その魅力が永遠にそこに置いておかれる、みたいな。


写真でも実は同じようなことを感じていて、写真として、物質化した途端につまらないものになるというような感じを抱いたことがある。

ある夏の日、見たこともない小さな小さな花が、コンクリートの隙間に咲いていた。

誰にも氣付かれないくらいの、でもよく見るとものすごい存在感を放っている、そのサーモンピンクのようなオレンジシャーベットのような色の花に、釘づけになってしまった。

そのとき感じた一瞬の感動と高揚が、写真に収めた途端、見返してみると、最初の時の感動がかなり薄くなっているのに氣付いた。

もちろん感動したその時の氣持ち自体は覚えているのだけど、もし撮らないでいたら、どんな風に記憶に残っただろう。

(まあ私が写真に興味がないというのもありますが・・・)

・・・・・・・・・・・・・・・


そんなこんなで今、思うのは、ストピやホールの演奏会の、一期一会の生演奏って、やっぱいいなと素直に思う氣持ちだ。
録音しない演奏で、その場その場の一瞬の音楽を、存分に味わいたいという氣持ち。

逆に言うと、録音したからこその氣付きでもあったと思う。


だからと言って、録音をしないということではない。それはそれでする(笑)そこにも、とても自分の中で学べることがたくさんあるから。
上達につながることは確かだし。

ちゃんとした機材で録音したいという氣持ちもある。

ただ、生演奏をもっと聴きたいし披露したいなという氣持ちが強くなっているのも事実だ。
やっぱり演奏って基本、生ものですよね・・・

その「生もの感」が失われることを先生は嫌っていたのかもしれない・・?

(なかなかコンサートに行けなかったり人と会うこと自体が極端に少なくなっていたから、要は人恋しさということでもあるかもしれないけど・・)


でもその前にレパートリーを増やさなければ、話にならない(笑)

・・・うんちく語る前に、私の場合はまず基本的なところから足場を固めないといけない、というところに着地しました(笑)

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