三題話 日本人と死の距離


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リビア西部の砂漠地帯  (C) Akio Fujiwara, Libya


 砂漠の洞窟で、40代の北欧の医者は焦っていた。2011年3月半ばの夕暮れのことだ。私はリビア西部の反体制派の町ナルートで東日本大震災を知り、せっかく潜入したのに日本では「リビア内戦」どころではなくなり、いくら書いても記事にしてもらえず、再びチュニジア国境へ戻るところだった。

 密かにリビア領に入ったときは一人だったが、帰りは援助団体のその医師と行動をともにすることになった。国境の周辺にリビア政府軍の数が増えたため、反体制派に案内される形で我々外国人2人が脱出をはかっていた。
 人ひとりいない砂漠の国境でトラブルが起きた。

 迎えにきたチュニジア側のランドクルーザーがエンコしてしまい身動きとれなくなったのだ。運転手とその助手が何度かチュニジアの知人に助けを求めたが、辺りにはリビア政府軍が出没するため、らちが明かないようだった。闇とともに強風が吹き始めた。

 ノルウェー人の医者はカタコトの英語が通じる助手に「どうなっているんだ」「早く援軍を呼んだらどうだ」と5分と間をおかず問いただし、洞窟をせわしなく出入りしていた。私が「まあ、座りなよ」と声をかけると今度は私に向かって「じゃあ、どうするつもりなんだ」と声を荒げた。「地元にくわしい彼らに任せるしかないよ。幸い洞窟があるから死ぬことはない」と言うと、彼も「そりゃそうだ」と一時は応じるが、最後まで落ちつくことはなかった。
 過去にもアフリカや中南米で似たことがあった。身の危険が迫ったとき、私のそばにいた欧州人やラテンアメリカ、アフリカ人は一様に感情や行動が激しくなった。対する私は震えあがるほどの恐怖を感じても、外見は普段以上に落ち着いているように振る舞った。いや、実際、そういう状況になると「来たぞ、来たぞ」と思い、道端の小石のように静かに、自分の生死を運命に任せてみようという気になる。他力本願。やや投げやりな態度だが、どうしてそうなるかは自分でもよくわからない。
 結局、私たちは3時間歩いてチュニジア領にたどり着いた。ノルウェー人が持ってきたスーツケースが砂にのめり込むため、二人でそれを持ちながらのつらい歩行だった。そのとき私は、「これは、個人差だろうか、それとも、国籍、文化の違いだろうか」と考えていた。
 2日後のこと。私が暮らすローマに戻るとイタリア人から質問攻めにあった。「どうして日本人はああなんだ」「なんであんなに落ちついているんだ」という話だ。聞くと、東日本大震災の被災者についてはイタリアのメディアがこぞって「日本人の気高さ」を報じていたという。日本人が感情を露わにしない所に「エキゾチズム」を感じているようだった。

 私は09年春にイタリア中部で起きたラクイラ地震に触れ「イタリアの被災者も静かだったよ」と応じると、「でもあのときは略奪があっただろ。日本人は違う」と、どうしても日本特殊論に持っていきたいようだった。

 ちょうど同じころ、チュニジアからの難民がシチリアのランペドゥーサ島に溢れかえり、食料危機の騒ぎが始まっていた。集会で島民が政府に激しく抗議し、「私たちは政府に捨てられた!」「私たちを殺すのか」と泣き叫ぶ女性がくりかえし放映された。すると、早速イタリアの記者がローマの私の自宅に電話してきて「どう思う?」と聞いてきた。「たった1日であの騒ぎだ。日本人と全然違うだろ?」

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ローマのテベレ川沿い  (C) Akio Fujiwara, Italy


 次に来たのは福島第一原発の話だ。近所のワイン店の主人が東京にいる私の長男のことで何度も電話してきた。

 「俺の一生の頼みだ。息子をローマに呼びもどした方がいい。1、2年学業が遅れてもなんてことはないよ」

 近所の理髪店主は「世界は終わりだ」と言わんばかりに、「放射能がまん延しているのに、日本人はよくあんなに平然としていられるな。お前もなぜ家族をこっちに呼ばない」と私をなじる。イタリアの主な報道陣が震災直後から大阪に避難し、「人の消えた東京」「放射能予防で全員マスク着用」といったデマを伝えたことが大きいが、私が着目したのは、普段のんびりしている彼らがこういう時になると、まるで自分のことのように素早く大げさに反応することだ。
 新聞社の特派員としてイタリアに暮らし、興味深い人を探し続けてきたが、そんな一人に作家の故ティツィアーノ・テルツァーニ(1938~2004年)がいる。彼は「イタリア人はつまらん。メシの話しかしない」と母国に背を向け、30年以上にわたりベトナム、中国、日本、タイ、インドなどを渡り歩いてきた。ドイツ誌の元アジア特派員だった彼の著作は、死後も若者を中心に売れ続け、死の間際の息子との対話をつづった作品「終わりと私の始まり」(未邦訳)が2011年、ドイツでブルーノ・ガンツを主演に映画化された。
 妻のアンジェラさんによると、彼は85年から90年までの東京特派員時代、ひどいうつ状態になり、何度か自殺衝動にかられたそうだ。
 テルツァーニは65年に初めて訪れた日本にひかれ、なんとしても日本に住みたいと思っていた。「人類が日本人から学ぶべきことを私は知りたい」という思い入れを記していた。

 だが、住み始めたのは85年。当時の日本にショックを受けた。彼の目には20年で日本が大きく変貌していた。そして、「この国は何かが間違っている」と浮かれる消費社会を否定する記事をひたすら送り続けた。

 それでも東京生活を終えフィレンツェに戻ると、日本人の正確さを引き合いに「だからイタリアはだめなんだ」とこぼす面も持ち合わせていた。晩年、日本論を書こうとして書ききれなかった彼は、がんで死ぬ寸前、息子のフォルコさんにこう語っている。
 「日本人の死生観はほんとうに偉大だ。イタリア人は死を拒み、そこから逃れようとするが、日本人はその逆なんだ」
 ドキュメンタリー映画の中で彼は死の直前、笑いながらこう話している。
 「死にすごく興味があるんだが、死んだら、それを書けない。それが残念だ」「がんは敵ではない。最後まで一緒にいる自分の一部だ。自分とともに逝く仲間だ」「我々は生まれた時から何十億もの遺灰が詰まっている巨大な墓の中を歩いているんだ」
 「諸行無常」になじんだ日本人にはさほど珍しくはないが、映画をつくったマリオ・ザノット監督は私にこう話した。
 「彼の言葉を聞き私自身が死を身近に感じ、アジアに引かれるようになった。イタリア人が彼にひかれるのは、死を恐れることなく、むしろ静かに死に寄り添うその姿勢にだ。我々のベースには死は痛みという考えがある。教会は、迫害され磔(はりつけ)にされたキリストの絵など、残酷さと痛みでみちている。でも、痛みへの恐怖は何ももたらさず、人をただ不安にさせるだけだ。イタリア人がいまも死を開けっぴろげに語れないのはそこから来ているんだ」
 ティツィアーノが日本人の死生観をどのように受けとめ、晩年の境地に至ったかは、これからの研究材料だが、少なくともアジアをよく知る一作家が、死について日本から何かを学んだのは確かだ。つまり欧州人の目でアジアをくまなく見てきた彼にとっても、日本人は特殊だったのだ。
 数々の彼の作品が、日本では9・11直後に非暴力を訴えた「反戦の手紙」(04年、飯田亮介氏訳)しか紹介されていないのが、なんとも惜しいところだ。

(月刊誌「新潮」2011年6月号に寄稿した原稿を一部改稿)