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まだ、生きてるの?



〇悩み

 高倉イワオには悩みがあった。同居している高齢の母親のことだ。母は昔から身体が弱く、寝込んでばかりいた。持病もいくつも抱えていた。高血圧、糖尿病、骨粗しょう症……。いずれも一筋縄ではいかず、己と向き合い地道に共存していかなければならないものであるのは間違いない。どの症状も軽く見てはいけないのだが、体重90キロを超える彼女にとって最も深刻なのは骨粗しょう症であろう。ちょっとした所作で骨折の可能性があり、事実この病状は彼女と高倉の人生に暗い影を落とすことになるのだ。

〇繰り返し、繰り返し。

 転んで骨を折って入院して、転んで骨を折って入院して、転んで骨を折って入院して……。
 彼女の50代からの半生はこの繰り返しだった。医者は、いわば命令のようにこうアドバイスする。「適切な運動とバランスのよい食生活が必要です」そうしないとこの先、大変な目にあいますよ。健康の維持は将来のための堅実な投資なのです。しかし、母はそんなことおかまいなく、暴飲暴食、喰っては寝て、自堕落な生活を繰り返す。身体は決して良くなる方向に進まない。
 高倉もまた医者と同じように母親に告げる。そろそろ先生の言うことを聞いてくれ。
 母親は家族の懇願にいつもこう答える。分かってる、分かってる。分かってる……。こう繰り返して逃げ切りを図る。
 だが、とうとう〝分かって〟はくれなかった

〇また同じことを……

 また転んで骨を折った。今度は〝いつものように〟足や腕ではなかった。背骨、脊髄だ。家の中、畳の上で転んでしまった。肥満体で運動不足の身体では、畳のヘリの段差さえも乗り越えることができなかったのだ。父の話によると、ひっくり返ったカメのようにゆっくり手足をばたつかせて助けを呼んだそうだ。老いた父の力では母の巨漢を動かすことはできず、やむなく救急車の世話になった。
 医者から衝撃的な事実を告げられた。もう二度と歩けるようにはならない、と。骨粗しょう症の進行は激しく、回復は難しいとのこと。母に真実を告げるか、悩んだ。とりあえず、リハビリ頑張ろうと励ますことしかできなかった。
「うん、頑張るよ」母はそう言ったが、高倉は知っていた。絶対に頑張らないことを。やってますよ、というパフォーマンスはするだろう。だが、それだけだ。いつも誰かが助けてくれると思っている。いままではそうしてきた。そうできた。だが、もうそれは難しくなってきた。
 

〇この段階でも……

 父親は年金暮らし。コールセンターの派遣社員である高倉の給料もたかが知れている。ましてや、来年はもう50。将来性がある男でもない。生活に余裕はないのだ。だがしかし——。母はどう考えているのだろうか。残り少ない人生をどう歩んでいきたいのか。みんなあなたを生かすために、多くのものを我慢し諦めてきた……。クソ……自分のことばかりだ……。
 もう一度、母と話し合ってみるか。金のことなど後回しでいい——。
「何とかするの」
「だから、それを話し合おうと……。残りの人生をどう生きたいんだ?」
「何とかするの。何とかするの。何とかするの。何とかするの……」
 要は、お前が決めろ、何とかしろと言っているのだ。私は親ですよ。面倒を見るのは当たり前。
「母さん……。お金はもうないよ。俺も父さんもあなたのために使ってしまった……」
「何とかするの。何とかするの」

「そろそろ現実と向き合わないと……」話は平行線だ。現実から逃げようとする母とそれに引き戻そうとする息子。「一体、あなたは何をしたいのだ?」
「何とかするの」自分の親がこれほどグダグダだったとは。今更ながらの失望感がまとめてのしかかってきた。
 病院から出入り禁止の連絡を受けた。もう見舞には来なくてよいそうだ。

〇出禁の解除

 病院から呼び出しを受けた。父とともに。お母様のことで重要なお話が。出禁から半年のことだ。
「あらたな病状が見つかりました」医者が言う。入院中の精密検査により、肝臓に悪性腫瘍が見つかった。いわゆるガンである。進行は激しく、もう回復の見積もりはないという。余命はせいぜい半年。今後の治療方針を話し合う前にまず、ご本人と……
「ウッキー」母は叫んでいた。肥満体の身体はすっかり縮み上がり、今では体重30キロ代。母の持病に認知症が加わったのだ。母の面影はかろうじて、その奇声で連想できた。だが、向こうはこちらを理解できているのか……
「今後の治療ですが」渡された分厚いテキストに、各種の治療法が書かれて、その利点とデメリット、費用などが書かれていた。なるほど、金に糸目をつけなければ、数年の生命を買うことができるらしい。しかし、いずれも保険適用外。高倉に払える金額ではない。ため息をつきながら、最後のテキストをめくる。最後のレジュメ。『安楽死法にまつわる……』
「先生、この〝安楽死〟というのは?」
「では担当の医師から説明を」

〇それは希望?

 アンドロイドの医師とその看護師からその説明を受ける。なぜ、アンドロイド? それは〝責任〟を取りたくないからだろう。それはさておき、最近施行された〝安楽死法〟。要約すると『助かる見込みのない病状などで、その治療の過程で肉体的苦痛などが恒久的な場合に限り、本人とその家族の了承を得たのならば、法で定められる処置が可能』な法案だ。要件のいくつかはすでに満たしている。末期がんの治療、そして家族の了承。高倉の腹は決まっている。父親も高倉に決めさせるためか、黙っていた。しかし、問題は母親だ。母は本当にどう生きたいのだ。
 後日、高倉は再び母親と合う決意をする。

〇そして

「母さん、身体の調子はどうだい?」
「ウッキー」もう高倉を理解できていないのだろうか
「……母さん、もうおれどうしていいか分からないよ。おサルさんじゃないんだからさ」俺はもう母さんが死なないと、新しい人生の一歩が踏み出せないんだ。
 母親は病室で暴れ出した。たまらずナースコール。看護師が駆けつけてきた。先日のアンドロイドの看護師だ。「高倉さん。今、先生を呼んできますね」
 医者が来ると母は落ち着いた。慣れたのものだ、信頼されているのだろう。誰よりも、人よりも。
「高倉さん、例の件で来たのですね、いいですよ。確認します」この人はね。この前話したことについて確認しに来たの。大丈夫、痛くはないよ。金属シートを首に貼るだけだから、一瞬ヒヤっとするだけ、まったく痛くないよ。OKですか。分かりました。ではもう一度説明するからここにサインして。無理なら、拇印して。
 母の安楽死が決まった。こんなに軽く、あっさりと。

〇決意と一笑

 母が死んだ。やすらかな死に顔だった。子供の時以来みたことがない素敵な笑顔だった。高倉は涙し、決意する。
「先生。私自首します。やはり、あれは母の意思とは言えない。先生。あなたは認知症の患者と意思疎通できるプログラムを備えているのですか?」
「いいえ。そんなものはありません。その必要もありません。安楽死法には患者の家族の人生を守る法律でもあるのですから」それにとアンドロイドの医師が言う。「こう言ってはなんだが、下層庶民の老婆の死やその家族の生きざまに誰が興味を抱きますか?
「そうですね。私は確かにとるに足らない存在だ。でも……
「お父様も健在でしょう? あなたもまだ生きている。人間、元気なうちは最善を尽くすべきだ。自分のために。どんな手を使ってでも」


2048年 日本 配給:ユービックファクトリー

※2024年6月22日 「まだいきている。」から改題

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