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【短編】 優しい世界

 街から数キロ離れた場所に、優しい世界と呼ばれる広大なエリアがある。
「エリアの中には、俺たちの世界と同じような街があってさ」と、帰還者の男は言う。「そこに住んでいる人間はみんな心に余裕があるっていうか、俺たちの世界と違ってギスギスした感じがないんだよね」
 優しい世界は、入口のゲートで身分証さえ見せれば誰でも入ることができるが、そこから元の世界に戻ってくる者は百人に一人ぐらいしかいない。
 だから、優しい世界から戻ってくる者は珍しいということで、彼らは帰還者と呼ばれている。
「俺は、一年ほど優しい世界で暮らしていたが、そこで見つけた工場の仕事には結構苦労したよ。その工場では《ふわふわしたもの》っていうのを作っていて、まずはその《ふわふわ》の感覚ってやつを自分の中から見つけることが最初の仕事だった。でも俺には《ふわふわ》なんて似合わないし、そんな感覚なんて見つけられそうにないって落ち込んでいたとき、職場の班長が言ったんだよね……、『あなたみたいに、ふわふわと無縁そうな人ほど、実はふわふわに弱くて、感じやすいのよ』って」
 帰還者の男は、腕を組んで数秒間目を閉じた。
「俺はその言葉を聞いたあと、昔、道端に捨てられた子猫を何気なく拾い上げたときに感じたのは《ふわふわ》の感覚だったのかもしれないなと思ったんだ。でもあの頃は、若くて突っ張っていたせいで、その何だかまどろっこしい感覚を自分の中から切り捨てていたのかなと……。そのあと、俺は思い切って班長にデートを申し込んだ。しかし『もう結婚してるし、今は幸せだから無理だわ』と断られたのさ。俺は、いいなと思った相手にはすぐに声をかける人間だから、断られるのには慣れている。だから、いつも気持ちを切替て次の相手を探すんだが、班長とは工場で毎日顔を合わせるわけだし、俺の気持ちはどこにも逃げ場がなかった」
 インタビューで聞きたかったこととは違うが、途中で話を止めるわけにもいかない。
「俺は、彼女への気持ちを忘れるため仕事に集中することにした。でも、俺の作った《ふわふわしたもの》は、それなりの形はしていても、どこか歪んでいて売り物にはならなかった。『わたしが原因であなたが苦しんでいるなら、工場を辞めるわ』と班長は俺に言ったが、そういうことじゃないんだよね……。だから俺は、彼女の同情や工場のふわふわに耐えられなくなって、元の世界に戻って来たというわけさ」

(2021/11/10作)

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