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四倍速のしあわせを

夕飯はなにがいいかと尋ねたら、シチューがいいなと返ってきた。彼のいうシチューは具がごろごろと入ったホワイトシチューで、大きなボウルにたっぷりとよそって、それだけを黙々と何杯も食べる。
「ごはんとか、パンとか、いらないの」と聞くと、「だって、シチューって小麦粉だし」と彼はいう。変わらない答えに胸がちくちくと痛んだ。

彼とは、かつて住んでいた部屋のすぐそばのコンビニエンスストアで知り合った。再会した、というべきだろうか。ひどい花粉症で頬がかぶれ、なんだかものうい春先のことだった。
視線がとらえて、驚いた。まっすぐとおった鼻、妙に長く見える白い首筋。そこには、八年前にはなれた恋人の姿があったのだ。
正しく時間が経っていれば、彼は今年の夏で三十八歳になる。けれどそこにいたのは、どう見ても二十代の終わりごろ、わたしとはなれたころの彼だった。

そんなはずはないと思いながら、声をかけた。どんなふうに声をかけたのかはすっかり覚えていないけれど、驚いたようすのわたしを見て、彼は何かを察したようだった。

それからふたりで、喫茶店に入った。煙草のにおいがすっかり染み付いた古いにおいのする喫茶店だった。向かい合ってすわる。彼がポケットを探る。
わたしは(ラッキーストライク)と彼が取り出そうとしている煙草の銘柄を予想する。
箱の端がつぶれたラッキーストライク。間違いない、やっぱり彼だ。

煙草に火をつけるなり「ブレンドふたつ」と彼が頼んだ。メニューをひらく隙もなかった。わたしの話を聞かない(けれどそこに悪気がない)、彼の嫌いなところ。
「まだ選んでないのに」とむくれてみせると、馬鹿にしたように口のはしを釣り上げて静かに笑う。
左手の人差し指と親指でつまむように煙草を吸うところ、煙を吐き出すときに眉毛が少しあがるところ、吸い終わるとすぐにおしぼりで指先を拭うところ。すべて変わらない彼のくせ。

「俺、クローンなんだ」と彼は言う。吸い終わった煙草が三本、規則正しく並んでいる。
え、とわたしは問い返した。クローンって、なんだっけ。真っ先に、牛が浮かんだ。
「八年前に株分けをしてもらったから、これでももうすぐ八歳なんだけれど」と彼は笑う。八歳というと、小学二年生ごろかなぁ。目の前の男がランドセルを背負っているようすを想像して、わたしも笑う。

けれど、突然なにを言い始めたというんだろう。すっかり冷めてしまったコーヒーを舐めるように飲みながら、彼の話に耳を傾けた。

自分はクローンであること。
“親株”の記憶を引き継いでいること。
“一般の”人間と同じように生活をするけれど、四倍ほどの速度で歳をとること。

まるで冗談みたいな話だったけれど、彼にふざけたようすはなかったので、真剣に聞いた。けれど、真剣に聞いている“ふり”だったのかもしれない。厳密に言えば、彼がクローンかどうかなんて、どうでもよかった。だって、目の前に彼がいる。いなくなってしまったはずの彼が、ここにいるのだ。

すっかりコーヒーがなくなってしまったので店を出た。
「どうする」と彼が聞いたので、彼の服のすそを二度引いた。家に帰りたくない日は、決まってこうしていた。彼は覚えているだろうか。

「俺の部屋、近くだけど」と、彼は言った。彼の背中を追いかけるように、あとに続いた。

招かれるままに彼の部屋へ行き、また驚いた。おもちゃのような消音ギター、膝ほどの高さしかない冷蔵庫、入りきらない野菜が詰まったクーラーボックス。外観こそ違っていたが、八年前にわたしたちが暮らしていた部屋とまるで同じ空間がそこに広がっていた。

「すごいね、わたしこの部屋知ってる」
「だろうね、親株の暮らしの記憶のまま生きてるから」
“親株”と彼は同じ名前を名乗っている。教員だった親株の記憶を活かして、塾の短期講師をしながら暮らしているという。
「一年で四歳分老けると思うと、同じところで長くは働けないからね」と彼は難しい顔をした。
彼のようなクローンは他にも存在していて(彼自身はあまりよく知らないらしいが)、最低限の生活を保障してもらえるかわりに定期的に住まいを移すことが決められているらしい。

「記憶があるなら、もっと早く会いたかった」と言うと、「君こそ、さっさと見つけてくれたらよかったのに」と彼は笑った。

それから、当たりまえのような顔をして一緒にいた。
これまでのように、食事を用意して一緒に食べたり、寝そべりながら彼の歌う声を聴いたりした。聴きながら眠って、目を覚ますと隣に彼がいた。なんてしあわせなんだろう。やっと取り戻したのだ。だって、ずっと好きだった。あきらめようとして、他のひとを好きになったこともあったけれど、どうしても忘れられなかった。

聞きたいことは、いっぱいあった。
“親株”がいつ、何を思って株分けをしたのか。“親株”だった彼は、いったいなぜわたしのまえから消えてしまったのか—。
けれど、圧倒的なしあわせのまえではすべてがどうでもいいような気がした。彼は、わたしがかつてあいした“彼”そのものだった。
「親株と俺は同じ記憶と遺伝子を持っているのだから、当たり前でしょう」と彼は言うけれど、一卵性双生児だって成長の過程で顔つきや性格に違いが出てくるのだから、クローンにだって環境による変化があってもおかしくはない。
「じゃあ、あなたはどんな人生を生きてきたの」と、聞いてしまいたい気持ちをしまいこんだ。聞いてしまえば、目の前にいる彼が、わたしの知っている“彼”ではなくなってしまう気がしたからだ。

そうやってどれぐらいの時間を過ごしただろう。再会したころは三十歳前後に見えた彼だったが、目元にははっきりと皺が刻まれ、髪にはうっすら白髪が混じりはじめていた。そろそろ五十前後だろうか。
再会したときに三十だったわたしも、三十代の後半に差し掛かっていた。

「今はいいかもしれないけれど、きっともうすぐ親子ほどに容姿が離れてしまう。体力だってそうだ。それでも一緒にいたいと思う?」温めなおしたシチューをすくいながら、つぶやくように彼が言う。
すっかり筋肉が落ちてたるんだ彼のおなかに腕をまわす。
「それでいいのよ」

彼の親株だった“彼”とは、八年前にはなれた。きっかけは、彼の自殺だった。ドアノブに紐をかけて首をつっているところを発見されたと、警察からの電話で知った。

わたしはいま、“彼”のクローンを通じて、“彼”が送れなかった時間を四倍速で眺めている。もしかすると過ごすはずだった未来を、駆け足で生きている。
彼はきっとまたわたしを置いていくことになるのだろう。
目まぐるしくめぐっていく彼の季節に寄り添いながら、きっとそう遠くない別れの日を思った。


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