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宇佐見りん『くるまの娘』読書感想 私にはどんなくるまが用意できるだろう

学校が荒れて、「スクール ウォーズ」みたいなドラマがはやった直後の、自分の中学時代を、本書を読みながら思い出してしまった。

柔道部の顧問だったいかつい男性教師が、あるとき、私たちの教室に来て、ひとりの男子生徒を黒板の前に正座させた。

そして、花びんとして使っていたのだろうか、教室にあったウイスキーの空きびんをさかさに握り、バーンと生徒の頭をなぐったのだ。

バリーン。

びんが割れるとまで思わなかったのだろう。男性教師も、驚いたようなまぬけな顔をしていた。

授業が終わったあと、大丈夫?と男子生徒に近寄ったが、その後、教師のしたことは表に出ることも問題になることもなかった。

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なぜそんなことが起きたのか、担任に伝えたかどうかも覚えていない。
教室のみんな固まって、だれも何もできなかった。

どうしてすぐ校長室に走り、「あいつ狂ってます」と言わなかったのだろう。

なぜ「アホな教師を辞めさせろ!」と声を上げなかったのか。なぜ少なくとも、隣の教室の先生に声をかけなかったのか。

40を越した大人になってから思い出したら、悔しくて泣けてきた。

ばかな大人のすることをとがめられる子どもは少ない。

その場から逃げてもいいのだと思える子どもも、ほとんどいない。

その「大人」が自分の親だったら、なおさらだ。

本書を読みながら何度も、「逃げろ!」と思った。
でも読み進めるうち、自分のその感情に疑問がわいてきた。

逃げてどこへ行くの。
逃げた後、置いていかれた人たちは、どうなる?

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言葉や体への暴力にさらされる人が身近にいたら、まずはその場をすぐに去れと伝えることが正しいことだと思ってきた。今でもそう思っている。

でも、「去れ!」というのは、本当に現実的な助言なのだろうか。ましてや、傷つけられている当の本人が、それを望んでいなかったら?

本書は「自立」という言葉をつかって問いかける。

自立できない家族の前から去ることこそ依存関係からの自立につながる、とかっていうけど、そんな簡単に言い切れることでしょうか?と。

大人よりもずっと賢くて、ずっと優しいからこそ、大人を置いて逃げるなんてできない子どもはたくさんいる。

大人の年齢に近づきつつある主人公にとっては、「くるま」が、中間にあるための答えになった。その後、彼女たちはどうなったのだろう。何か前向きなことが起きていくような空気をただよわせて、物語は終わる。

くるまを持たない子どもはたくさんいる。
どこかにいるかもしれないそんな子どもに、私はどんなくるまを用意することができるのだろう。

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