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小説『雨下の向日葵』放課後ビッグバン③

読んでいただいてありがとうございます。この記事は続けて投稿している小説の第五回となります。
前回→小説『雨下の向日葵』放課後ビッグバン②|明日美言 (note.com)

 校門を抜けて、帰り道を歩き出す。私の通う四高は、小高い丘の上に建っているから、登校の時には登山と揶揄されるような長い坂道を登ることになるけれど、帰りは逆に、町中を縫う用に張り巡らされた坂が私の味方になってくれる。とはいえ、調子に乗って勢いをつけて歩きすぎると、革靴の中で足が擦れて痛んでしまうから気をつける必要がある。
 坂の多いせいか、この辺りの家はどれも基礎が高く、門から玄関までに階段のあることが多い。学校から少し歩いた先には、私の家のある応幕方面と、この辺りで一番栄えている氏方面との両方を繋ぐ通りに出る。路線バスの通り道にもなっているこの通りは、左右を家々の塀のような部分に挟まれている。気になって、少し前に本屋で調べてみたところ、どうやらこの部分は擁壁というのだとか。傾斜のあるところに建物を建てる時に、地面を平らにするために積み上げた砂やらなにやらが崩れないよう、補強するためのものらしい。坂だらけのこの辺りの家々は、まさしく、擁壁が必要な建物なのだ。その擁壁の部分には一軒につき大体二三個の割合で穴が空いていて、そこにビニールパイプの口のようなものが刺さっている。四高に通い出した頃は、排水口か何かだと思っていたものだから、雨の強い日などは、いきなりこの穴から水が飛び出てきたりしないものかとびくびくしていたのだけれど、この一年と少しの間、穴から水が出て来るのを見たことはない。水が出ないならそれでいいけれど、それはそれとして、あの穴がなんのために設けられているものなのか気になるところだ。
 車道側に植え込まれた街路樹の横を通って、ひたすら坂を下りていく。西へ向かって下っていくこの坂は、晴れた日の夕方には正面からまともに夕日が挿して眩しいのだけれど、今日はもうその盛りは過ぎたようで、既に日は低く落ち、建物の影にその顔を隠していた。これから梅雨が過ぎて夏の盛りが来れば、帰りは毎日、あの夕日に顔を覗き込まれながら歩かなければならないだろう。
 日の落ちた町は、急激にその光を失って、闇の中へ溶け始める。その劇的な変化の中で空を見上げると、わけもなく哀しくなってくる。夕暮れ時の空は、太陽の近くから少しずつ、こちらに近づくにつれて熱が冷め、その温度の変化に沿って色も変わっていく。その表情豊かな空は、ほんの束の間だけ私たちの前にその姿を見せて、青空や夜空がひた隠しにする空の本当の深さを教えてくれる。
 夕方という時間が私を哀しくさせるのは、多分、空の本当の深さが途方もないものだという当たり前の、けれどいつも忘れてしまう事実が、確かな実感と共に突き付けられるからなのだ。
 遠くに桃色の雲が見える。あの雲を真下から見上げているのはどんな人だろうと想像してみる。
 大人になった自分が、親の許しも同級生との不和も関係なく、自由に暮らしている姿を想像すると、今の自分がどうしようもなく惨めに思えて胸が苦しくなる。いつか来る独り立ちの時のために、アルバイトでお金をためていようが、部屋を借りるために必要な経費をあらかじめ調べようが関係ない。私はまだ子供で、この国で稼ぎのいい職に就くには最低限、大学を出なければならない。そして、私がその条件を達成するまでにはまだ、後五年以上の時間が残されている。私は後何回、大人になるまでにこうして本物の空を眺めて、子供であるということの無力さに打ちひしがれるのだろう。
 どれだけそれが嫌でも、十八歳に満たない私は、夜が更ける前に家に帰らなければならない。けれど家で私を待つ母のことを考えるとやっぱり足が重くなるのを抑えられない。もし、母がまだ今朝のことで機嫌を損ねたままだったらどうしよう。朝のことは私が悪かったとは思っているし、きちんと、母に謝ろうという気持ちもある。けれど、もし母がまだ今朝のことで機嫌を苛立ったままでいて、帰宅した私にあれこれと説教をしようとしたなら、私はきっとたちまちのうちに、私の胸の底に常に控えている反抗心に支配されて、無言の抵抗を貫いてしまうだろう。
 応幕駅を過ぎ、線路沿いの住宅街を進んで、瓦屋根の、二階建ての家の前に到着した。門を開けると、ついさっきまで町を霧のように漂っていたはずの感傷的な淋しさは一瞬のうちに消え失せて、後にはただ、母に対する不安だけが残った。空はもうすっかり、暗い紺色一色になっていた。
 どうか、お母さんがもう怒っていませんように、と祈るような気持ちで、音を立てないようにこっそりと玄関の戸を開ける。明かりの消えた廊下に、奥のリビングの入り口から白い光が漏れている。その明かりのせいで、黴のようにそこら中に張り付いた闇が余計黒々と深みを増しているように見える。革靴を土間に脱ごうと、右の足で反対の靴の踵を踏んだところで、トイレの扉が開いた。小さなトイレの中に設置された、オレンジの電球の光を背中に受けながら、母は私の前に現れた。私は反射的に息を潜め、身動きを止めた。扉の閉まる音、照明のスイッチが切られる音が続けて、微かな耳鳴りの中を走った。母はそのままリビングへ戻ろうとして、不意にこちらを見て、うわ、と大きな声を出した。
「葵?何してるん、そんなとこで・・・帰ったんなら挨拶ぐらいしなさい」
 声音は穏やかだったけれど、緊張で敏感になっていた耳は、母のその命令口調に過剰に反応して、私を動揺させた。咄嗟に、
「うん、ごめん。ただいま」
と一息に答え、素早く靴を脱いで揃え、
「何か居ると思ったら・・・」
と一人呟いている母の横を抜け、急ぎ足で二階への階段を上り、自分の部屋に入った。あまりじっとしていると、母にまた何か言われそうな気がした。
 部屋の中は、朝急いで準備をした時と何も変わってはいない。窓が東向きのこの部屋は、朝は鬱陶しいくらいに明るいくせ、夕方以降の時間はひどく暗い。扉を閉めてから、反射的に照明のスイッチに手を伸ばして、けれど電気はやっぱりつけなかった。
 薄暗がりの中、靴下とカッターシャツは床に脱ぎ捨てて、残りをハンガーにかける。本当はこの後床の上に重なっているシャツたちを一階に持って行って、洗濯に出さないといけないのだけれど、今日はなんだか妙に疲れたようで、気だるさに引っ張られるまま、私は下着姿でベッドの上に転がった。冷えたシーツの感触が肌に触れて、私は小さく身震いした。ゆっくりと寝返りを打つと、髪がシーツとこすれて、砂のような音を立てた。うつ伏せになり、小さく呻き声を零しながら、ぼんやりと枕カバーの角をつまんで遊んでいるうち、頭の中にはまた、西校舎で見たあの光景が浮かび始めた。
 自分がどうして、あの光景にそこまで惹かれるのかは分からなかった。確かに、あの光景は不思議で、非日常的で、綺麗だった。けれど今自分が抱いているこの感情は、単にそういう要素に対する、好意的な受け入れではなくて、もっと何か、予感めいたものであるような気がする。何の予感なのかと言われれば、答えに窮してしまうところではあるから、その感覚は本当、理由とか根拠のないただの直感でしかない。けれど、いやだからこそなのかもしれないけれど、そのただの直感がもたらす予感には、不思議な安心と、少しの興奮と、はかばかしい不安とがぶら下がっていた。
 予感が示すものを探ろうと頭を悩ませた後で、結局、帰り道と同じで、考えても仕方のないことは考えないでおこうと判断して、体を起こした。
 部屋の明かりを点け、通学鞄から読みかけの小説を取り出して、栞を挿んでおいたページを開く。読書を始めると、時間は飛ぶように過ぎていく。まるで読書をしている時間だけがごっそりと削られて、始めた瞬間と終わった瞬間が接着されたような感覚。映画で言えば、カット。ビデオで言えば、早送りじゃなくて、「次」ボタン。楽しい時間はすぐに終わってしまうと言うけれど、私はそれを本を読んでいる時に実感する。舌をべろっと出した写真が有名なあの天才の言葉の正しさを、私は今身をもって証明しているのだ。
 本を開いてから、どれくらい時間が経ったかは分からない。読めたのはたったの五ページだけだったから、せいぜい数分だろう。本を読み進めようと、次のページに指先を添えたところで、階下から、母が夕食ができたと私を呼ぶ声が耳に入った。聞こえた声には苛立ちが混じっている。多分、私が本を読むのに集中している間に、何度もこちらに呼びかけていたのだろう。慌てて返事を返し、そのまま部屋を出かけて、すぐに自分の格好に気付いて服を着た。
 一階へ下りると、キッチンの調理台には既に、私と母の分の料理が全て盛り付けられた状態で、所狭しと並べられていた。母と一緒に、並んだ皿や器をテーブルに運びながら、食卓に居ない父のことを考えた。
 昔は、夕食は必ず家族三人で食べることになっていたのだけれど、数年前に父が課長に昇進して、仕事が忙しくなってからは、そのきまりも崩れ、今日のように母と二人で食べることが少なくない。
 いただきます、と挨拶をした後の食卓に会話はない。私と母の間にある沈黙を埋めるように、テレビの中でアナウンサーが陰鬱なニュースを伝えている。その声の中に、二人の咀嚼と、食器の擦れる音が微かに混じって響く。
 静かな食卓は、何も今に始まったものではないし、この場に父が居ても状況は何も変わらない。いつの頃からか、波雲家で交わされる会話は必要最低限の、ほとんど事務的といっていいものだけになっていた。私と両親の間で交わされる会話も、父と母の間で交わされる会話もだ。それはもうずっと前から私のうちに燻り続けている、親やその他大人への反抗的な態度のせいでもあるのかもしれない。不完全に燃焼する火が煙で人を殺すように、私の身から溢れている不満げな態度が両親を蝕んでいる、とそんなことを考えていると、また大人になりたいという例の願望が沸騰してくる。時間をおいて他にその願いをかなえてくれるものはない。だからこそ、日々緩慢に流れていくだけの時間の怠惰さが腹立たしい。せめて時間の過ぎるのが早ければ、私ももっと楽観的でいられたのに。
 食事を終えると、私の担当になっている風呂洗いをしてから部屋に戻った。食事の前に沸かさなかったのは、一応、遅くに帰ってくる父が暖かいお湯に浸かれるようにという、私と母の配慮があったからだ。沸いた風呂には、私が一番に入ることになった。母はいつも、父が帰るまで自分は風呂に入らず、リビングでテレビを見たり、雑誌を読んだりして時間を潰している。風呂に入った後で皿を洗うのが嫌だから、らしい。その言葉の裏に、疲れた父に洗い物をさせるのは忍びない、という想いやりがあるのかどうか、私には分からない。
 一人、湯船に鼻先まで沈んで、口から吐き出した息が泡になって、ぶくぶくと水面を盛り上げては消えていくのを眺めてみる。狭い風呂の中は、沸かしたての湯船から溢れた湯気が充満して、視界がほんの少しだけぼやけている。姿勢を直し、首から上を湯から出す。手の中に少しだけ、胸元の辺りの湯をすくって見ると、その小さな水面の中にオレンジ色の照明の光が映った。昔、盃の中の酒に映った月に風流を感じたとかいう人がいたとかいないとか聞いたことがあるけれど、それは丁度こんな感じだったのだろうか。
 透明な日本酒に宿る月の光は、きっと青白い、静謐な色をしていただろう。今この手のひらの中で柔らかく波打つ水面の光は、同じ静けさを含んでいるけれど、その色はまるで違う。オレンジの静かな光が想起させるのは、やっぱり夕暮れの陽光だろう。
 湯に反射して強く光るオレンジ色を眺めていると、次第に眼底がその強さに耐えきれなくなって、鈍い痛みを感じた。痛みは放課後の逆光が私に与えたそれに似ていた。眩しい。なのに目を離せない。あれはそういう景色だった。一度脳裏に浮かんだ景色は再び、私を私の内側へと引き込んだ。目を開けたままであっても、そこには風呂の壁の代わりに、屋上へ続く階段とあの女子生徒の姿が見えた。私はあの時自分の周囲を満たしていた、かび臭い、湿ったような埃のにおいをさえ思いだすことができた。
「ダンス、か」
と呟くと、掠れた声は風呂場のつるりとした壁に当たって反響し、湯気に吸われて消えた。
 彼女は一体、誰に見せるためにダンスの練習をしていたのだろうか。あるいは、誰に見せるためでもなく、ただ踊っていただけなのだろうか。
 そうだったらいいな、と思った。誰のためでもなく、飾らず、ただ自分の体を動かすことの喜びに浸るようなダンスがあったなら、きっとそれは、他を圧倒する美しさを持っていることだろう。全ての人に受け入れられることはない、本人だけが、その本当の美しさを知っているダンス。夕方の美しさにも似た恍惚。
 今度は小さく、ふふ、と笑いが零れた。なんだか、芸術家っぽくてかっこいいな、なんて、子供みたいな考えが自分の中に生まれたからだった。そんな酔いのような時間は、けれど、すりガラスの戸を叩く音と、
「まだ?」
という母の声にかき消されてしまった。
「ごめん、もう出る」
と返し、すぐに言った通りに風呂から上がった。脱衣所から中を振り返ると、もう湯気は換気扇の中に飲み込まれてしまって、そこには物の一つ一つの輪郭のはっきりした、乾いた空気が残されていた。嫌に生活感のあるその景色に、私は目を背けた。
 濡れた髪を乾かしてからヘアゴムでまとめ、洗面所を出た。廊下を歩いている時から、食器の音がするな、と思っていたので、二階へ戻る前にリビングを覗くと、予想通り、ネクタイだけを外したスーツ姿のまま、父が夕食をとっていた。向かいで雑誌を読む母との間に会話はなく、二人の間に流れる空気はまるで冷えた鉄のように、硬くて冷たい。
「おかえり」
と一言だけ声をかけると、父は痩せた顔をこちらに向けて、
「あぁ、うん。ただいま」
とだけ答えて、また食事に集中し始めた。あんなに白髪の多い人だったかな、と思う。母も最近、顔に小さな皺が増えた気がする。
 少しの間、二人の座る食卓を眺めていると、
「ん?どしたん?」
と母が私の方を見た。それに釣られて、父も箸を動かす手を止め、同じようにこちらに目を向ける。
「あぁ、いや。時計見てただけ」
 それだけ、繕うように言うと、私は逃げるように階段を上って部屋に戻った。部屋の中は暗かった。ドアを閉めると、なんだか、息をするのが楽になったような気がした。

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