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小説『雨下の向日葵』放課後ビッグバン②

読んでいただいてありがとうございます。この記事は続けて投稿している小説の第四回となります。
前回→小説『雨下の向日葵』放課後ビッグバン①|明日美言 (note.com)

 西校舎は、その名の示す通り、東校舎と平行して建てられた西側の校舎だ。丁度二十年前、この学校が前身となった工業高校から、今の普通科の高校になった際に建て替えられた東校舎とは違い、何十年も前に建造された古い建物だ。老衰した校舎は、その安全性が疑問視されていて、再来年、丁度私がここを卒業する次の年に建て替えが行われる予定なのだという。その影響もあって、今の西校舎は、一二階が一部の授業や部活のための特別教室として使用されるだけで、三階はほとんど使われていない。
 東西の校舎の間は一階の渡り廊下で繋がれているだけで、移動教室がある時にはいちいち一階まで下りて校舎間を歩かなければならないので正直不便だ。芝生を模した緑のマットの敷かれた渡り廊下は、頭上のトタン屋根が高いせいで、雨の日に通ると、風に煽られた雨粒から身を守ることができず、どうあがいでも制服が濡れてしまう。その上夏は傾いた日差しが直に降るし、冬は冷たい風を防ぐものがないので寒い。と、こういう言い方をするとまるでいいところがないようだけれど、今日のように、風の心地いい夕方などは、遮るものがないお陰で逆にその肌触りを直接感じることができるから、私は結構気に入っている。
 廊下の先、西校舎の入り口は、曇りガラスのはめられた重そうな観音開きの扉が取り付けられていて、生徒が学校にいる間はそれが開け放たれている。足を踏み入れると、さっきまで微かに窓から漏れて、渡り廊下に降り注いでいた吹奏楽部の楽器の音が、今度は壁に反響しながら柔らかく私を包み込んだ。斜陽の挿しこむ西校舎内は、東校舎と比べるとどうしてもあちらこちらに刻まれた年季が目立つ。教室の床はワックスがはがれているし、階段の手すりは金具が緩くなっているせいで掴むとカタカタ音を立てて揺れる。いつかここで青春を過ごした誰かのサインも、探せば簡単に見つかるだろう。
 私は、入学したばかりの時からこっちの校舎の方が好きだった。年月を経ることでしか生まれない、暖かさや優しさのようなものがここにはあるような気がしていたから。数年後には旧館として、外観の写真だけが残されるだけになって、ここにあったはずの沢山の思い出と共に崩されて、新しい建物になるこの場所が、私の卒業まではこのままであってくれることが、私は少し嬉しかった。
 ゆっくりと階段を上がっていくと、吹奏楽の音色が段々と大きくなってきた。二階へ上がりきったたところで、私はほんの一瞬足を止めた。音楽室のあるこの階の廊下は、高低両方の音を含んだ管楽器の旋律に満たされている。時折、指示の声や雑談がそれに混じって私の側を通り過ぎていく。少しの間それを聞いて、私はまた階段を上り始めた。足を止めたことを、ちょっとだけ後悔した。自分の存在を、水の中に浮かぶ一滴の油のようだと思った。自分がここに居ることが、不自然であるような気がした。油は嫌いだ。ぬるぬるして嫌だ。けれど、水に溶けないところは、やっぱりちょっとだけ好きだ。
 三階は完全に無人だった。折角来たのだからと寄り道をして、空き教室を一つ、扉の窓から覗いて見たけれど、椅子のない机が教室の端に固められているだけで、後は何もなかった。軽くドアを引いてみると、鍵がかかっているらしく、硬い引っかかりを感じた。誰もいない教室で、しっかり施錠のルールが守られていることがなんだかおもしろかった。
 ドアが鍵に引っかかった音は、誰もいない廊下に寂しく響いた。一つ下の階で不規則に響く音が、三階の静けさを異様なものにしているようだった。中学のプールの授業で水に潜った時を思い出す。水面のすぐ上で弾けるクラスメイトのはしゃぎ声は、水中ではその火花のような感触を失って、しぼみ、やわらぐ。この三階に満ちている静けさは、水底のそれとそっくりだ。階段という水面が、階下の音を阻み、この場所を他から切り離している。その静寂のせいか、空気が妙に張り詰めているような気がして、私は足音を潜めて歩いた。物音はここでは異物になってしまう。それこそ、油のように。
 一度気になりだすと、足音だけでなく、衣擦れやら、唾を飲み込む音やら、そんな微かな物音までもが妙に嫌な感触を持って、その存在感を増し始めた。さっきまでの、読書にいいかもしれない、なんて甘い考えも、もうない。私はこの場所が好きだけれど、そこに居る私のことは好きにはなれそうにない。潔く諦めて、ここはさっさと撤退することにしよう。抜き足差し足、どこかに盗みにでも入るような調子で、私は階段の方へ戻り、そのまま下へ下ろうとして、踏み出そうとした足を止めた。物音。聞き覚えのある音。頭の中をひっかきまわして、すぐにその正体にたどり着いた。上靴の底と床の表面がこすれるあの音だ。
 私は上へ向かう階段の方へ足音を忍ばせて移動し、音のする方を見上げた。その瞬間には、ここへ来た目的の一つだった、件の幽霊の話は、もう忘れてしまっていた。だから私は、私の目に飛び込んできたその光景が、確かに現実のものなのだとすぐに受け入れることができた。もしも私があの怪談のことをまだ意識の中心に近いところに置いていたなら、流石の私も、まずは彼女こそがあの幽霊なのかもしれないと、一度は疑ってしまったことだろう。見上げた先には、屋上への階段が続いている。階段の先には、下と同じように、折り返しとして長方形の踊り場が設けてあって、高い位置にある灯り窓から、傾いた黄金の光が、踊り場と階段下の私の両方にいっぱいに注がれている。その強烈な逆光の中で、長い黒髪が宙を流れた。ステップ、それからターン。遠心力を受けて、スカートが一瞬、重力を忘れてふわりと広がる。セーラー服に包まれた四肢が静と動を繰り返し、光の中を泳ぎ、踊り場のさらに上へと続く階段の陰に隠れては、また姿を見せてを繰り返す。
 綺麗だった。一度そう形容すると、もう他の言葉は浮かばなかった。彼女はこの場を満たす水底のような静寂を音楽に、挿しこむ光をスポットライトに、踊り場を舞台に変えていた。呼吸をするのも忘れる、というのは、こういうことを言うのだと私は初めて知った。一人踊る彼女は、こちらにはただの一瞥もくれず、おそらく私がここに居ることにも気づいていないだろう。表情は逆光に隠されて見えないけれど、多分、その目は周囲の何物にも焦点を合わせてはいない。今彼女の意識を支配しているのは、ただ自分の一挙手一投足とその感触だけだ。
 自分がどうして、ここまで彼女の姿に釘付けになっているのか、分からなかった。そんなことを考えている余裕がなかった。最初に一目、光に浮かぶその姿を見た瞬間、私は雷にも似た鮮烈な衝撃に射抜かれて、麻痺した全ての感覚は、今目の前で広げられる、誰のためでもない演目を感じることに捧げられていた。他の全ては、私の頭から消し飛んでしまって、今世界にはこの狭い廊下と階段と私たち以外には何も存在してはいないような気さえした。
 たん、と最後に一際大きな足音を立てて、彼女は動きを止めた。
「ダンスが終わったんだ」
そう考えたところで、ようやく、感覚に意識が追いつき始めて、そうか、彼女は踊っていたのか、と今更ながらに理解した。
 演目を終えた彼女は、ゆっくりと、伸ばしていた腕を下ろして息をついた。その荒れた吐息の温度までもが、階段の下にいる私のところまで伝わるような気がした。緊張を解いた彼女の顎から汗が雫になって落ち、光を弾くその一瞬さえ、私の目は見逃さなかった。私は、目を焼く眩しさの中に手をかざして、影を作りながら、必死になって彼女の動作を観察していた。けれど、それほどまでに相手のことを見ていながら私は、その彼女がこちらの視線に気づく可能性というものを、全く考えていなかった。
 大きく深呼吸をして息を整えた次の瞬間、彼女はこちらを見た。表情はやはり、明かり窓から挿す逆光に隠されて見えなかったけれど、私は確かに、一瞬、彼女と目が合ったのを感じた。ほんの束の間、驚きのあまり思考を完全に凍り付かせて、けれどすぐに意識を取り戻して、私はその場で踵を返して階段を駆け下りた。強く、上靴が床を踏みつける音がいくつもいくつも重なって、階段付近の縦に延びた空間の中に響き渡る。反響する音が自分を追ってくる足音のように聞こえて、私は必死になって、渡り廊下までを駆け抜けた。西校舎を出るまでの十数秒の間に、私の周囲に漂っていた水のような静寂は乱れて、その原型を失い、跡形もなく消えていた。どうして逃げたのか、わからなかった。ただ逃げようという意思と、それを起点として生まれた追われることへの恐怖だけがあった。その恐怖は、決して、何か自分に害をなす存在に対して抱く類のものではなくて、ただ、自分という存在を彼女に見られてしまうことで、あの空間に満ちている、どこか神秘的な雰囲気に染みを作ってしまうことへのものだった。結果的に、私はその恐怖に駆られることで、ただ目を合わせてしまう以上の影響を、あの光に満ちた場所にもたらしてしまったのだと思うと、走り出した瞬間の自分が恨めしかった。そんなことを思う程、あの場所と彼女に対して自分が魅力を感じた理由は、まだ荒波のような焦りの中にある頭ではわからなかった。
 後ろを振り向いても、そこには誰もいなかった。ただ照明のついていない西校舎の入り口が薄闇を湛えて、観音開きの唇を開けているばかりだ。
 渡り廊下を吹き抜ける風の音に促されるまま、火照った体を冷まそうとゆっくり歩き出す。下駄箱まで戻ってきたところでようやく、ひとまず誰も自分を追ってきてはいないのだということを確信した。そのまま、鋭敏になった自分の聴覚を持て余しながら、何を考えるわけでもなく、自分の革靴の入った下駄箱の冷たい戸に手を触れて、ただ動悸の収まるのを待ちながら立ち尽くした。観念して靴を履き替え始めた頃には気分も落ち着いてきて、興奮から覚め始めた頭には、自分が目にした光景に対する疑問が泡のようにいくつも浮かび始めた。
 この学校にダンス部は存在しない。ダンス部、という名前を使わず、別の名前で踊りに類する行為を練習するような部活もない。無理やり可能性を挙げるなら、演劇部辺りなら、演目によっては劇中にダンスを踊る必要が生まれるということもあるかもしれない。けれど演劇部員なら、東校舎で同じ部員と一緒に練習をしているのが自然だろう。やはりこの線も少し苦しい。
 一度頭に浮かんだ疑問は、家路を避ける言い訳を失ったことに対する小さな諦めと共に、帰路についた私の頭の中を延々と回り続けた。いくつかの可能性を考えはしたけれど、どれも想像の域を出るものではない。結局のところ、何故、の部分は本人に聞くほか答えを知る方法はないのだから、考えても仕方がない。私は半ば無理やり思考の糸を断ち切ることにした。

次回→小説『雨下の向日葵』放課後ビッグバン③|明日美言 (note.com)

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