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小説『雨下の向日葵』放課後ビッグバン④

読んでいただいてありがとうございます。この記事は続けて投稿している小説の第六回となります。
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 翌日。
 今日の五限目は、家庭科室での裁縫の実習だった。進級してまだ二か月も経っていないのにもう実習をするのかという不満を腹の底で弄びながら昼食を終えると、必要なものと読みかけの小説をもって、足早に二年二組の教室を出た。どうせ教室に居てもやることがないなら、静かな家庭科室で読書をしたいと思ったのだ。
 移動教室の場合、大抵、移動先の教室の鍵は日直か一番のりの生徒が借りて来ることになる。つまり今日の場合は、日直であり一番のりに違いない私が、鍵を借りる担当ということになる。
 もう昼休みが始まって二十分近く経っているから、早い人は昼食を食べ終えて騒ぎ始めている。話声や笑い声がそこら中で弾けて漂う廊下を過ぎ、階段へ差し掛かると、一旦、三階の声の波は引いて、しかし二階が近づいてくると今度は二階、一年生たちの声の波が押し寄せて来た。ある程度落ち着きを感じる三階の生徒と違って、まだ数か月前までは中学生だった彼らの騒ぎはほとんど動物園の猿山と変わらない。違うのは、尻が赤ではなくて青だというところくらいだろう。
 職員室の前に立つと、距離のせいか、若干うるささはマシになったようだけれど、念のため、戸を叩く拳に少し力を込めた。
「失礼します。二年二組の波雲です。次の授業で使うので、家庭科室の鍵を借りに来ました」
と、入口に張られた紙の指示通り、定型文の挨拶を述べる。これを言えば、近場の教員が壁から鍵を取り外して渡してくれることになっているのだけれど、今回はなぜか、手ぶらの担任が髭の剃り残しのある顎を触りながら近づいてきて、
「あれ?鍵さっきもう誰か借りて行ったで?」
と困惑した顔を見せた。私より先に生徒が移動する確率は、他の時間ならともかく、昼休みを挟んでいる五限の場合はそう高くない。もしかすると、先生が先に準備のために借りていったのかもしれない。と私は一人納得して、
「分かりました。失礼します」
 会釈をし、担任の返事も聞かずにさっさと戸を閉じる。あの担任は苦手だ。まだクラスが始まったばかりなのに生徒に妙に馴れ馴れしくて、こちらと距離を縮めようとする努力が丸見えなところが、申し訳ないけれど、ひどく惨めに見えて嫌だ。女子生徒と男子生徒で、叱る時の声の調子に違いがあるのも、ものすごく嫌だ。男相手には大声で怒鳴るくせ、女相手には変に静かに喋って、諭すような口調になる。気色悪いったらありゃしない。私が表向き校則やクラスのルールを厳守しているのも、あの教師に叱られるのが嫌で嫌でたまらないからだ。
 少し前に、二度三度シャツがズボンから出ていたせいでこっぴどく絞られていた男子生徒の姿を思い出す。服装の校則破りを注意するなら、スカートを毎日折って短くしている女子生徒の方をこそ注意するべきなのに、あの男はそれをしない。よく知らないけれど、タバコって、吸うと肺だけではなくて、頭蓋の中まで穴だらけになるんじゃないだろうか。そうだとすれば、担任が女子生徒のスカートを注意しないことにも説明がつく。タバコを吸い過ぎて、女子の変化には気づかないくらい阿保になっているのだ。
 自分の想像の中では、相手は私に手も足も出せない案山子に過ぎない。私が水をかけても土を投げつけても、火を放っても文句ひとつ言わず、しおらしく俯いているだけだ。だから腹が立った時は、よく今のように、頭の中で思い浮かべた相手の顔に、思いの丈をぶつける。気分が良くなったためしはないけれど、何もしないよりは気が紛れていい。
 たどり着いた家庭科室の戸は、少しだけ開いていた。中に先生が居たら少し気まずいな、と下を向く気持ちを払うように、扉を大きく開いた。
 戸ががらがら音を立てながら右にスライドする。視界が開け、照明の付いた家庭科室の光景が目に飛び込んでくる。クラスの教室の、個別の机とは違って、始めからグループでの授業を想定した六人用の机と、その傍にそれぞれ並べられた、四角い箱みたいな形をした木製の椅子。そして教室の端、私の班の机に広げた教科書から目を話して、こちらを見ている女の子。
 登坂さんは、私と目が合うと、どこか恥ずかしそうに目を逸らし、泳がせ、思い出したように、さっきまで見ていた教科書をまた読み始めた。顔立ちが幼く、背もクラスで一番低い彼女は、遠くで騒ぐ一年生たち以上に、背伸びをした中学生という表現がよく似合う。というより、高校生という肩書が全く似合わないという方が正しい。その容姿と真面目な性格のお陰で、クラスの誰もから可愛がられているはずだから、彼女がここに一番にいるのは正直以外だった。
 彼女と私は、実習では同じ班になる。同じ班には他に男子が三人いるはずだけれど、彼らと横に座るのは正直御免被る。かといって、あまり話したことのない登坂さんと隣になるのも困る。丁度机には六人分の席があるのだから、登坂さんとの間に一人分、椅子を開けて座れば、それで万事解決するだろう。
 わざわざそんなことをする必要もないかとは思ったけれど、一応、確認をとっておこうと、
「ここ、いい?」
と声をかけると、登坂さんは焦ったように、あ、とか、えっと、とか言ってから、何かを押し隠すような微妙な表情で頷いた。やっぱり、席に着くだけでいちいち確認を取るのは変だったかもしれない。何も言わず、普通に座ればよかった。
 後悔に吞まれる前にと、手早く小説を開き、文章に目を走らせる。作品に集中していれば、作中の人物の皮を被れるから、自分の感情はある程度無視できる。
 ぺら、とページをめくる。視線は文章を追っているのに、なんだか集中できない。言葉の意味が、目を通したすぐ後に霧散してしまって、頭に言葉が届くころには、中身が空になっているような感覚だ。何度も同じところを読み返して、少し進んで、また読み返してを繰り返す。集中が乱れる理由は分かっている。さっきからちらちらと、隣の遠坂さんがこちらを盗み見ているのが尻目にわかるのだ。ここまで何度も見られると、自分が気づいていないだけで、寝ぐせが点いているとか、ごみがセーラー服についているとか、そういう可能性を邪推してしまう。もし私の想像通りなら、あちらも、あまり話したことのない私にそれをどう伝えるべきか悩んでいるのかもしれない。私の知る限り、登坂さんはあまり活発に喋る方ではない。四月の自己紹介の時なんて、緊張のせいか声が震えていたくらいだ。
「・・・どうかしたん?」
 しびれを切らして、本を置き、登坂さんの方へ目を向けて、私と彼女双方のための助け舟を出した。彼女はまた、困ったような顔をして、躊躇いがちに、
「あの・・・」
と、彼女が口を開きかけたところで、また家庭科室の扉が開いた。同じクラスの女子が三人、教室から移動してきたらしい。談笑するその声が、人気のない家庭科室で浮ついて響く。
「あ、登坂さん、もう来てたん?」
 入口から一番近い机に教科書を置いた三宮さんが、登坂さんの方に近寄って来た。残りの桐野さんと近江さんも、それに続いてくる。
「あ、うん。私、裁縫興味あるから、先に教科書で、縫い方見とこ思って」
 四人の会話を他所に、机に置いていた本に再び視線を落とした。集中するから話しかけるな、という意図を暗に示しているのだ。特に仲が良いわけでもない相手の読書を邪魔してまで話しかけてくる人はそういない。
「あ、波雲さん、何読んでるん?」
 いた。声の方へ恐る恐る目をやると、こちらに向けられた四人分の目がそこにあった。
「ちょっと、波雲さん、今読んではるんやし・・・」
と登坂さんが止めるのを、
「え?ええやん別に、何読んでるか、聞くだけやねんし」
 な、と会話のボールをこちらに投げつけて来る近江さんに若干苛立ちつつ、
「まぁ・・・」
と曖昧な言葉を返して、指を挟んだまま本を閉じ、その表紙を見せた。けれど、これは失敗だった。よしんば失敗ではなく、ただの事故だったのかもしれないけれど、いずれにせよ、私が声をかけられた時点でもう、結果は決まっていたのかもしれない。本の題名を聞かれて、本当にそれだけで会話が終わるはずがないことなんて、わかっているはずだったのに、私はなにも考えず、ただその場をしのぐことだけ考えて表紙を見せた。
「『女生徒』」
 私が見せた本のタイトルを、近江さんは少し前かがみになって読み上げた。
「へぇ、初めて聞いた。面白い?」
「まぁ・・・」
「誰の本?あ、太宰治か、書いてるな」
「うん」
「どんな話?」
「短いのがいっぱい入ってるから、色々」
「ふぅん」
 私の答えはあくまで簡潔だった。それはもちろん、こちらに会話を長続きさせようという意思がなかったからだ。けれど、三人は私の返答では満足できなかったらしく、
「なんか、変態っぽい」
と冗談を言って、会話を広げようとした。それを誰が言ったのかは、三人の方を見ていなかった私には分からない。ただ、その冗談が彼らなりの親しみの表現であったことだけは、理解しているつもりだ。当然、本気で「変態っぽい」と作品を馬鹿にしたわけでもなかったのだろう。けれど、そのちょっとしたおふざけが、私の腹の底に落ちて小さく火を立てた。
「いっつもそんなん読んでるん?」
 笑いかけながら質問するその声に、
「そんなこと、なんであんたに言わなあかんの」
 あぁ、また失敗した。そう気づいた時にはもう遅かった。
 素早く、視線を三人の顔に走らせる。三宮さんたちは、私が突然鋭い言葉を繰り出したことへの驚きで、揃って口を閉じたまま一瞬沈黙していた。その沈黙を破ったのは桐野さんだった。彼女は申し訳なさそうにつくり笑いを浮かべて、
「ごめんね、いきなり聞くのもよくなかったね」
 じゃあ、私たちは戻るから、という彼女に続いて、残りの二人もそれぞれ、
「邪魔してごめんね」
「登坂さん、また」
と言い残して、自分たちの机に戻って行く。
 謝るべきだったのは自分ではないのか、と考えていたのに、それを言葉に出来ず、ただ去っていく三人を見送るだけだった自分にまたなんだか腹が立つ。
「あの、皆も悪気があったわけやないと思うから・・・」
と、三人と私の間を取り持とうと笑って見せた登坂さんの方を見る。そう意識したわけではなかったけれど、私の視線に苛立ちが色を付けていたらしく、彼女は私と目を合わせるなり、
「あ、ごめん・・・」
と悲しそうに俯いた。
 授業中の空気は苦しかった。正面に座る男子は、彼らだけで会話を簡潔させていて、こちらにその余波が及ぶことはない。ただ、私の横で黙々と縫い針を動かしている登坂さんの方が気になって、さっきとは反対に、今度は私が、彼女の方を何度も盗み見ていた。
 私は彼女に謝りたかったのだ。けれどいきなり、ごめんなさいというのも変だから、まずは謝罪ができるように会話の流れを作る必要がある。が、そもそも会話をどうやって始めればいいのかが分からない。
 その時、左手の親指に痛みが走った。大したものではなかったけれど、反射的に零れた、
「痛ッ」
という私の声に、正面の男子が一斉に目を向けた。一応、その視線には心配という要素もあったのだろうけれど、大半は予想外の事件に対する野次馬根性で構成されていただろう。話しかけられるのも嫌だったので、大したことはないという風を装って、そのまま作業を再開すると、彼らもこちらへの興味を失ったようで、さっきまでと同じ、下らない雑談をまた始めた。
「波雲さん?」
 不意に、登坂さんの声がした。登坂さんは私の手元を見て、すぐに机の上のペンケースを手に取った。彼女のペンケースはライオンのぬいぐるみのような見た目で、丁度尻尾がジッパーのスライダーになっているらしい。私は指先で脈を打つ熱を忘れて、柄にもなく、可愛いペンケースだな、なんて思った。その間に、彼女は開いたライオンの背中から、潰れた小さな絆創膏の箱を取り出した。そこでようやく彼女の意図を察した私は、
「あ、別に大丈夫、そこまでせんでも・・・」
 舐めとけば治る、と言いかけて、流石にやめた。
「いいの、いっぱいあるから」
と彼女が言う通り、彼女が開いた箱は、中は見えなかったけれど、彼女が箱を動かす度にがさがさと中身が擦れる音が小さく聞こえていたから、それなりの量が入っているのだろう。
「手、出して」
 登坂さんは絆創膏のフィルムを半分程剥がして、こちらに差し出した。本当に、ここまでしてもらう必要はないのに、と思いつつ、これをきっかけにさっきのことを謝ろうという下心もあって、私は左手を差し出した。
 親指の腹には、小さく赤い点が出来ていた。見ているとその点は段々、風船のように膨らんできて、私の手の動きに合わせて小刻みに震えた。
「あ、血出てるやん。大丈夫?」
と正面の男子がこちらを見た。
「あ、うん、平気」
 私が適当に返事をする間に、登坂さんが赤い風船を上から潰すように、絆創膏を私の指に巻き付けた。ひとまず礼を言おうと顔を見ると、登坂さんは照れたように笑って、
「これで、大丈夫」
 結局、その後正面の男子たちが登坂さんの行動を優しいだのなんだのともてはやして、彼女を会話に巻き込んでしまって、私はついに彼女に謝罪することは叶わなかった。三宮さんたちには言わずもがなだ。

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