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『小松菜とさつま揚げのオイスターソース炒め』

今日は、焼き魚と、とろろ、白菜のおひたしが課題でした。

課題というのは、自分に課せられたミッションであり、仕事のこと。

献立は、予め決められていて、毎週毎週その曜日ががくれば、また同じ献立が巡ってくる。

提供される側の人たちは、そうした一食一食をとても楽しみにしている。

それが、よくわかる。文字通り、言葉を超えて、伝わってくる。


そうした料理は、自分のためにする料理や家族や親しい人のためにする料理とは、違う気がしている。

一番の違いは、その摂り方だろう。

栄養士さんが考えた献立に、野菜のサラダがある。新鮮な野菜を使ったサラダも、現実には食べる人といつも残してしまう人がいる。
残してしまう人は、計算された栄養を摂れないで終わる。

あるいは、こんな人もいる。
朝はスープかみそ汁なら摂るが、あとは食べないという人。
もちろん何品かを提供するのだけど、米はもちろんおかずも食べない。
(トーストは食べるのだけど…)

さて、今日の献立。

残念なことに、今日は買い出し間に合っておらず、長芋が無かった。

余り食材のストックに、小松菜を見つけたので、代用しようと考えた。

我々は、食べたいものがあれば、自ら食べることが出来ます。美味しいものを求めて、時間や労力や、お金をかけて出かけて行くことも出来る。

しかし、僕が提供している人たちは、心身ともに事情があり、そうしたことはままならない。

そこに居ながらにして、摂るより他ない。
そうとも言える人たちだ。

昨夜のこと。
就寝時間を過ぎてから、たびたび起き出してきては、『献立カレンダー』の前にやってくる女性がいた。
朝食が気になるのだろう。

見た目は、40代で年相応なのたが、話し方が小さなお子さんのよう。

献立の前に立ち、指しながら「明日は…魚?…と、とろろ?」そう聞いてくる。

「明日は◯日、◯曜日だから…そう、魚だよ」
「牛乳は?ある?」話すたびに、眼鏡の奥の、丸く大きな瞳が見える。

沢山あるよ。

「あとは、とろろ…?」
「とろろはないから…小松菜にするね。食べられるかな?小松菜」
そう言うと、女性は頷いて、部屋に戻って行く。
そうしたことを何度か繰り返して、やがて、安心感にくるまるようにして、いつしか女性は眠りについた。

朝がきた。

フライパンで焼いた魚の切り身も、普段は出てこないオイスターソース味に炒めた小松菜も、よく食べてもらえた。

結果は、完食だった。

良かった!ホッとした。




時々、思う。
人の人生における食事の回数には、限りがあるのではないか。

そして何よりも、食べることは、愉しみでもある。  
それは誰にでも言えることだろうと思う。

予習と復習を繰り返し、愉しみながら課題を解いていきたい。
 
そう思っている。


↑自宅に帰ってからの自分の“朝食”

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