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あの日(5)
いつまで続くのかわからない緊急事態宣言、自粛にもうほとほと疲れ、うんざりしている人も多い今日この頃かと思う。私も、その一人だ。
先日、消耗品を買いにショッピングモールへ行った。物凄く混んでいた。最早緊急事態宣言が出ていても誰も自粛していない。
「自粛」には、どうやら限界があるらしい。
2011年当時もそうだった。被災地の為に、東北の人達の為に自粛しよう。楽しいことや、華やかなことは控えよう。
だが、2週間もするともう気が滅入ってきた。
テレビから繰り返し流れる、この世のものとは思えない津波とその後の壊滅した街の映像。「ポポポポ〜ン」のCMはラジオからも流れてくるので逃れられない。アンパンマンの歌、上を向いて歩こう。もうたくさんだ。私は、塞ぎ込んでしまっていた。
ふと思い出した。地震の、数ヶ月前のことである。
通りがかりの小さくて素敵な外観のお店に、勇気を出して一人で入ってみた。何のお店なのかもよくわからなかったが、そこは新しく出来た自家焙煎の珈琲屋さんだった。
お店の人に案内され、ビビりながらカウンター席に座った。二十歳前後の頃から紅茶派で、珈琲には縁の無かった私は何を注文したらいいかわからなかったが、珈琲屋さんなので珈琲を頼んだ。ホットで。
口にして、びっくりした。珈琲って、こんなに美味しいものなのか…
さらっとしていた。それまで私が知っていたコーヒーというのはインスタントとか、ペットボトルに入っているああいう感じのものだった。とにかくドス濃いやつ。コーヒーは、胃に悪い。胃がやられる。私には合わない。そうとばかり思っていた。
「コロンビアです、どうぞ」
サービスでもう一杯、別の銘柄を出してもらってしまった。恐縮しながらいただいて、またびっくりしてしまった。
同じ珈琲なのに…!味が、全然違う…!
珈琲がこんなに美味しいものだとは…しかも、名前によって味がこんなに違うものだとは…カルチャーショックだった。
また来よう…。素敵なお店…。
それから少しもしないうちに、震災が起きた。
あのお店、どうなってるかなあ。カウンター奥の棚にいっぱいカップ並べてたなあ。あの素敵なカップ、全部落っこちちゃったんじゃないかなあ。
あのお店、行きたいなあ。ホッとするお店だった。珈琲、美味しかったし。
母と一緒に行ってみることにした。
お店は盛況だった。きっと自粛に疲れた人、テレビから流れる津波の映像に疲れた人がいっぱいいるんだろうなあ。そんな気がした。
カウンター奥のコーヒーカップは無事の様子だった。お店自体も、幸い大きな被害を受けていないように見受けられた。
その時の写真である。本当に久しぶりに、心が安らいだことを鮮明に覚えている。
昨今うんざりする程耳にする「不要不急」という言葉を思う。
珈琲も、ケーキも、窓辺のお花も「不要不急」として括られるものなのかも知れない。だが、あの時の私にとってこれらは決して「不要不急」ではなかった。「必要急用」な心の癒しだった。
ご縁があり、私は2011年の年末にこのお店で展示をさせて頂いた。それから今まで、長いお付き合いが続いている。
感謝の一言である。
間もなく、桜が咲いた。毎年見に行く場所に、お花見に行った。
自粛の為、桜まつりは無し。出店も出ていなかったような気がする。
12日の朝は、朝が来たことを有り難いと思った。
春が来た。今度は、桜が咲いたことを本当に有り難いと思った。
そういう年だった。
何処まで書いたら終わりになるのか自分でもわからないので、取り敢えず「あの日」についてのシリーズは本震から1ヶ月が過ぎる頃の、この辺りで終わりにしようと思う。
なぜ何処まで書いたら終わりになるのかがわからないのか。それは今日、これを書いている正に今この時も「あの日」の続きでしかないからだ。
2011年3月11日の延長線上に、今日今この時は存在している。
出来るだけピックアップしてあげつらうと、私は3月11日の後何年か、東京に足が向かなくなった。帰宅困難が恐ろしくなったのである。
そもそも電車に頼って、歩けば半日もそれ以上も掛かる所へ毎日通うような暮らし方がおかしい。電車は、電気で動いている。電気に頼り過ぎだ。
電気を使い過ぎだ。だから、原発なんかが必要になる。
そんな思考に陥っていった。
当時、震災と原発事故に端を発する「昔の暮らしに戻ろう」「自然に帰ろう」というムーブメントが一部の人達の間で起きていた。それらは主にクリエイターだの、アーティストだの、文化人だのといった人達の間に入り込み、やがて政治的な動きと結びつくようになった。「リベラル」「左」と呼ばれるような政治勢力と結びついていった。
『君繋ファイブエム』の頃からASIAN KUNG-FU GENERATIONが大好きだった。ゴッチの大ファンだった。
ゴッチは早い段階から被災地支援に積極的に取り組み、原発反対の意向を示した。ここまではよかった。私は、ゴッチを応援した。
すると、数々の「文化人」「論客」などと目される人達や、新聞などが若手の急先鋒としてゴッチを担ぎ上げ始めた。
数年が経つ頃、ゴッチは私の大好きだったゴッチではなくなっていた。被災地支援よりも、原発反対よりも自分の政治的主張。あっちにもこっちにも首を突っ込むようなツイートや言動が多くなり、アジカンの音楽自体も、私の好きだったアジカンではなくなって行った。
震災が、原発事故が、ゴッチとアジカンを変えてしまった。
東京に行くことを避けるようになり、地元で活動を始めたが、行く先々で先ず最初に訊かれるのは「結婚は?」「お子さんは?」。
ジェンダー問題がうるさく叫ばれるようになった今ではNG質問だが、田舎なこともあって当時は「若い女性に出会ったら先ずそこから」というのが当然のような空気だった。そして、子どもがいる人達はママ同士でグループになる。
こんなんじゃ、創作活動には到底集中出来ないな。そういった集まりや場からも、足が遠のいて行った。
そういう場所にはやはり反原発、オーガニック、ナチュラル、そういうものに並々ならぬこだわりを見せるママも多かった。一時期ネット上でも槍玉に上がった「自然派ママ」というやつだ。こういう食べ物を食べれば放射能を体の外に出せるとか、子どもには絶対予防注射を受けさせないとか。なにか、怪しい宗教じみたものすら感じる。
ディズニーには絶対連れて行かない、オーガニックなものしか手にしない食べさせない着せない。まあ、よく考えたりしなくても何だか異常だなという感じがする。距離を置いた方が無難だ。
私だって今でも、原発なんてあんなものは無い方がいいと思っている。理由は簡単で、2011年3月12日に本当に世界の終わりが来たと思ったし、自分もみんなももう、長生き出来ないと思ったからだ。恐ろしい思いをしたからだ。
だが、全国には沢山の原発が立地している。その原発の保安や維持に関わる仕事をしている人達も大勢いる。福島第一原発に関しては、廃炉の為に尽力してくれている人が大勢居るのだ。その人達の働きが無ければ、私達は今ここでのうのうと暮らしてはいられないのだ。
それを思うと、単純に直情的に「原発反対!原発反対!」とは言えない…というのが、今の私の考えだ。
もう、原発ありきで世の中が回るようになってしまっている。それはあの震災の前から、ずっとだ。私も含めた多くの人達が知らなかった、関心を持たなかっただけなのだ。
福島第一の廃炉もそうだが、大量の使用済み核燃料にしても、これからの問題なのである。単純に「反対!反対!」と言っていれば解決する問題ではないのだ。
「震災をきっかけにナチュラルな自然に帰る暮らしを始めました♪」「震災がキッカケで田舎に移住しました♪」なんてのが、如何に嘘臭いかがわかった。
「原発反対!原発反対!」では何も解決しないことがわかった。
10年経った、私の現在地点がここである。
一方で、10年前と変わっていない思いもある。
モノと情報が多過ぎる。取捨選択しないと、あの日みたいに全部崩れて、潰されてしまう。
情報の量は、10年前よりも更に多くなっている。恐らく、倍以上だ。
今も「あの日」の延長線上だ。あの日の続きだ。
きっとそうやって、この先も続いていく。あの日の続きが。2011年3月11日の続きが。
(了)
photography,illustration,text,etc. Autism Spectrum Disorder(ASD)