はじまりさえ歌えない
ゴールデンウィークが終わっても、僕はまだ何のサークルにも入っていなかった。
各部活やサークルは新歓活動を終えようとしており、今さら、入りたいです、と部室に行けるような雰囲気でもなかった。
これといって入りたい団体も無かったのだけれど。
ただ、中学生の時から、音楽が好きだった。
ロック、ポップス、演歌と、手当たり次第に様々なジャンルの音楽を聴き漁った。
音楽への熱が膨らむにつれ、何も楽器を弾けない自分に対するコンプレックスが増幅していった。
大学に入ったら絶対に楽器を始める。
そう決めていた。
それに、何か一つくらい楽器を弾けた方が、音楽を聴く時の楽しみの幅も広がると思った。
だが19年間、いかなる楽器にもろくに触れたことのなかった僕にとって、音楽サークルに入部することはいささか勇気のいることだった。
結局、いくつかのサークルに顔を出したきり、面倒くさくなって、どこにも所属することなく5月を迎えてしまった。
僕の大学は、1、2年生の間はクラスごとに必修の授業を受けるシステムになっていた。
入学後は、同じクラスの一つ上の先輩があれこれと世話を焼いてくれる。
履修のやり方から入るべき部活、大学近くの安い飲み屋に至るまで、様々な情報を新入生に教えてくれるのだ。
その先輩の中の一人に、軽音楽サークルの部長を務めている男がいた。
黒髪をマッシュに切り揃え、左耳にピアスを開けた男だった。
僕がまだどこのサークルにも属していないことを聞いた彼は、
一度うちの部室に遊びに来な、と声をかけてくれた。
ある日の放課後、僕はクラスの友達を連れ、彼の部室を訪ねた。
部室の入り口である鉄製の重い扉には、ピアノを弾きながら歌うポール・マッカートニーの写真が貼られていた。
そのドアを両手で開けると、熱気と音楽が立ち込める狭い部屋が目の前に出現した。
皮の剥げたソファに腰掛け、エレキギターを弾く長髪の男。
雑誌が山積みのテーブルでポーカーをする茶髪の男と、ハーフの女。
部屋の隅に立ち、棚に置かれたCDケースの山を漁っている男。
僕は思わず萎縮した。
入りなよ、部長に声をかけられ、恐る恐る足を踏み入れた。
錆び付いた金属製のロッカーとラックで埋め尽くされた壁の間、ごく僅かに空いたスペースに、ミック・ジャガーのポスターが貼ってある。
ポスターは画鋲で四隅を留められていたが、左上の画鋲だけが外れ、少し捲れていた。
バンド、興味あるの?
アコースティック・ギターを抱えながら、部長が僕に尋ねた。
ポーカーをしていた茶髪の男が振り返り、僕を睨む。
はい、初心者ですが。
僕は茶髪の男を睨み返しながら答えた。
「うちは初心者歓迎だから。何聴くの?」
手にしたアコースティック・ギターで何かのメロディを奏でながら、部長が再度尋ねた。
「洋楽は、80sまでなら何でも。邦楽は、まあ尾崎とか。」
舐められてたまるか。
ビートルズさえろくに聞いたことのなかった僕は、茶髪の男を睨み返しながら答えた。
ハーフの女がニヤッと笑った気がした。
へえ、尾崎聞くの。
突然、部屋の隅でCDラックを漁っていた男が、僕に声をかけた。
「次のライブ、一緒にバンド組もうよ。」
まだ入部する意思も伝えていない僕に対し、そう一方的に告げると、彼は再びCDの山に目を落とした。
それがY先輩との出会いだった。
結局僕はその場で入部を決め、部長と連絡先を交換した。
面倒になったらまた辞めればいい、そう思っていた。
何の楽器をやりたいかと聞かれ、僕はドラムと答えた。
大した理由はない。
フィル・コリンズやYOSHIKIが好きだったから、何となくドラムを選んだ。
どうせ、どの楽器も初心者だ。
鋭い目つきの茶髪の男は、僕をポーカーに誘った。
居心地の悪さを感じていた僕は、用事があるから帰ると告げ、部室を去ろうとした。
部室のドアを開けた僕に、Y先輩が声をかけた。
「尾崎、何のアルバムが好き?」
「壊れた扉から、です。」
僕は緊張を隠しながら答えた。
「俺はやっぱ、十七歳の地図だなぁ。」
Y先輩はそう口にすると、僕に微笑みかけた。
それから一ヶ月の間、僕はY先輩と11回飲みに行き、4回酔い潰れ、2回喧嘩をした。
ようやく、大学生活が始まった気がした。
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