『ねばならぬ』の恐怖
久しぶりに大学時代の友人に会いました。
みな変わっていなくて、学生の時に戻ったような感覚になり、楽しいひとときだったのですが。
友人の1人の波瀾万丈の人生を聴いていて、何かモヤモヤとしたものが残りました。
友人たちとは、ある体育会系サークルで知り合いました。サークルというより、ガッツリ体育会系部活だったので、上下関係は厳しく、実力で同級生同士でもランク付けが出来てしまうようなところでした。けれどそれぞれの暗黙の立場をわきまえて、そこを超えないように上手くやっていたので、絆は強かったのです。
久々に学生時代の感覚が蘇って、楽しかったのですが、学生時代にもうすでに役割が出来ていてそこを超えられないような違和感を覚えました。
そして、その時代の友人たちは、そろいもそろってストイック。
これまでの話に耳を傾けながら、「もっと気楽に生きられないのかな?」と思っていましたが、性格というのは変わらないし、その性格によって人生のあゆみ方もある程度決まってしまうんだなと、ひそかに思っていました。
私の学生時代は、いまと違い、虚構の中に生きていた気がします。
お金があることが幸せ。
友達が多いことが幸せ。
どのような集団でも、その中で地位が高い方が幸せ。
そんな暗黙のランキングがあり、その中で役割を守りつつ、自分の立場をわきまえて限界まで頑張る。
学生時代に落ちこぼれだった人は、優秀だった人に敵わない。今でもそのランキングは生きています。
友人の1人は、学生時代にはサークルの中で『落ちこぼれ組』で、本人もそう自虐的に語ります。
私も落ちこぼれ組に入っていて、その仲間で失敗談を語るのが楽しかったりします。
けれど彼女は一方で、『私は優秀だ』という意識が高く、卒業後の人生を聞くと、「そこまで頑張らなくても!」と思うようなエピソードが満載。あまりにもストイックで聴いている方が疲れてしまいます。
その彼女の話の中で、成人した子どもが、母親の自分を避けている、口を聞いてくれない。と言っていたことが気になりました。
彼女にとっては、一所懸命育てたはずの子どもからなぜそんな対応をされるのか分からず、心配の種ではあるのですが、『疲れるくらいストイックな話』を聞かされた側としては、子どもの気持ちがわかる気がしました。
彼女は、人のために一所懸命になっているようで、実は自分がどれほど凄いのかをアピールしたいんだと思います。本人には自覚は無いけれど……。
学生時代にランキング下位にいたことは、自虐的にも語って楽しんでいても、やっぱりそれぞれ心の傷になっているんですね。
当時上位に居た人は、相変わらず凄い仕事を成し遂げています。
そこはやはり能力が違うと認めざるを得ません。
けれど、能力で見ないで、別の要素を見ていけば、みなそれぞれ同率に素晴らしい存在。
そこが見えなかった学生時代の私たちは、優越感と劣等感のせめぎ合いで生きてきたのかもしれません。
私はその役割から降りたくて、いろいろな道を歩んできました。
しかし彼女は、その役割を超えよう、見返してやろうというエネルギーで生きている。
それでも凄い仕事を成し遂げているので、それはそれで素晴らしいと思う。
だからこそ、もっと自分を許して楽にさせてあげてほしいなと思うのです。
彼女のお子さんも、お母さんを尊敬しつつも、自虐的な要素を感じ取ってしまって、見ているのが苦しいのではないかと感じました。
あの時代は、多くの人が
『○○であらねばならぬ』
の恐怖に脅かされていたんだなと、つくづく思い返した出来事でした。