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鏡の国の向こうへ

自分の気持ちに向き合うようになって、私は鏡の国に生きていたのではないかということに気づきました。

ここから書く気持ちは、ついこの間まで私が持っていた『間違った思考』です。
この思考を今、180度変える作業に取り組んでいるということを先に書いておきます。

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うまく行かないことばかり。
私を批判する人ばかり。
私を侮辱する人ばかり。
なんでこんなに酷いんだろう?
こんなに酷い人との出会いばかりというのは、
自分自身が人間失格だからじゃないのか?
私自身が人間失格なら、どこに行っても、何をやっても、うまくいかないに決まっている。
どうしてこんな人間に生まれてしまったんだろう?
どうしてこんな人間でも生きていかなくてはならないんだろう?
私のような失格者が生きる糧を、もっと生きるに値する人にあげる方法は無いのだろうか?

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うつ状態の時に、これよりも酷い自虐思考に悩まされていて、寛解したと思っていましたが、この思考ぐせは変わるわけではなく、それが希死念慮に結びつかなくなっただけだったんです。

半分諦めて、その日その日を何も考えずに生きることはできます。
そういう刹那的な思考ができると、うつの状態が緩和される。
けれど本質的な改善にはなっていませんでした。

ひとたび社会に出れば、私を評価したり好意を持ってくれる人もいれば、非難したり嫌悪したりする人もいる。
たいていは私のことなど眼中に無い人ばかりです。私という存在を認識してくれる人などごく僅かなのです。

そのごく僅かの中で、私のことを批判する人に、私は気持ちが囚われてしまい、私のことなど眼中に無い人たちを冷たいと感じてしまう。
まるで世界が自分を中心に動いていて、私をいじめるために社会がある、そんな感じ方をしていたことに気づきました。
そして、私のことを『批判』した人も、私自身が批判されるように動いてキッカケを作っていたのです。

相手が私を嫌っている
ではなく、
私が相手に嫌われるように仕組んでいる
という感じです。

見えている現象は、相手に問題があるのではなくて、私の方に問題があったのです。

鏡の中の自分は、片手を上げると、反対側の手を上げます。全く自分と同じ動きで!
私が手を上げなければ何も起きません。

暗い表情をすれば、鏡の中の自分が笑うことはありません。
怒れば、鏡の中の自分が優しい目で見てくれることはありません。

他人は自分の鏡と言いますが、イマイチ良くわかっていなかった。
ときどき、物が思う通りに動かなくてイライラすることがありますが、それはまさしく、自分が上手く動かないような操作をしているからなんですよね。

根本に、私が私を嫌っていて、自分の人生を『どうでも良い』と思っていることがあります。

鏡の中の他人に怒られ続けて、呆れられて続けて、さらに自分が嫌いになり、人生を投げ出したくなっているという悪循環が起きていたのです。

いつも何かにイライラしていて、つまらなさそうにしていて、口を開けば取り止めのない愚痴ばかり。
そんな人がいるだけで、見ている方もイライラしてきます。
強迫的に何かに没頭してしまい、やらないと不安だ、忙しい、とあくせくしている人を見ているだけで、落ち着かない気持ちになってしまいます。

自分の側から、相手の行動を見ればわかることも、自分が他人にどういう影響を与えてきたのかということになると、全くわからなくなる。
でも、鏡はちゃんと、私がやった通りのことを他人の行動を通して見せてくれていたのですね。

白雪姫の継母は、思い通りの姿を映さない鏡に不信感を抱きます。
しかし、映っていたのは、嫉妬に狂う鬼婆のような継母そのものだったのです。

それと同じことを、私はやっていたのです。

本来なら自分が主体となって動くものを、逆に鏡の側になってしまい、作り上げた人間失格の私がやる通りに動いてしまっていたのかもしれません。

鏡と自分はぐるぐると絡み合っていて、どちらが鏡で、どちらが本物かわからなくなってしまったら、その通りにしか動けなくなってしまうのです。

最初に映し出した『ダメ人間』という設定を、今こそ主体である自分を取り戻して、変えていく時なのだと思います。

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