見出し画像

それ、誰のため?

私の中にいる『影子』を意識するようになってから、私の生活のほとんどの場面で、影子の恐れや遠慮で自分をセーブしていることに気づきました。

朝起きて、やらなければならないことを数え憂鬱になる。
このやらなければならないことは、まず家事、そして今日行かなくてはならないところ、守らなくてはいけない時間など……。
影子は、常にビクビクしていて、この『やらなくてはいけない』という強迫観念は、「叱られるのが怖い」という動機から来ています。
家事をやらないと、家族から文句が来る。
約束の時間に遅れると、仕事のことなら上司から叱責される。趣味や自治会などの集まりなら、相手から侮蔑の目を向けられる。リーダー的な人から叱責される。

まだ起きてはいない『失敗』を想定し、自分がそれをジャッジするのではなく、他人がジャッジすることを恐れているのです。
もちろん、良い年をして他人に叱られることを恐れていることを恥ずかしいとも思っています。
だから大人になってからの影子の悩みは、叱られる恐怖に加えて、叱られているところを他人に見られる恥ずかしさも感じていたのです。

大勢の前で叱る
ということは、その対象者の行動を修正してより良い状態にするのが目的ではなく、その行動をしたことによって『大恥』をかかせ、二度と恥をかきたくないという恐怖心から自制を促すという、非常に卑劣な方法なんですね。
しかし、学校の教員には、この卑劣な方法を用いて子どもを従わせようとする人間が少なくありません。しかもこれが卑劣な行為だと気づいてもおらず、今この子をしっかりと叱らないと将来のためにならないと思い込んでいる場合が多いのです。

ー みんなの前で恥をかきたくない ー

という影子が生まれたのは、家庭ではありませんでした。
家庭で散々のけ者にされてきた寂しさも大きく影響していますが、記憶にある限りの決定的な出来事としては、小学校3年生の時の担任の行為です。
何をするのも不器用で遅かった私は、担任に目をつけられていました。
給食を食べ終えるのが遅いと、次の掃除の時間にも担任の机で最後まで食べさせられました。
掃除の時間は、担任は教室に不在。
するといつまでも先生の机で給食を食べている私をからかって、男子が私の給食に雑巾のゴミを落とすのです。担任が戻ってきて、私がまだ給食を食べ終えていないと、私を叱り、「もう良いから捨ててきなさい!」と吐き捨てるように言う。
原因を作った男子たちは遠目で楽しそうに見ています。
また、図工の時間に課題の絵が描き終わらないと宿題に出されます。絵を描くのは好きでも絵の具を扱うのが苦手。家で苦戦していると母がやってきて自分のやりたいように塗ってしまい、「自分で描いたというのよ!」と言い聞かせる。
次の日担任に提出すると、大人の手が加わったのは一目瞭然で、結局母が描いたことがバレて叱られる。しかもクラスみんなの前で。
極めつけは、合唱コンクール。
1番、2番、3番の最後に「やぁ!」という掛け声が入る曲だったのですが、大事な本番で極度に緊張していた私は、2番で「やぁ!」と言ってしまったのです。大勢の観客の前で恥をかいたのはもちろん。教室に帰ってきてからが地獄。せっかく一所懸命練習してきたのに、私のせいで失敗してクラス全体が落ち込んでいる。それに追い打ちを掛けるように、担任がクラス全員の前で私を厳しく叱ったのです。

支配的な母によって、自己主張かできない子に育ち、小学校に入学。
右も左もわからない上、母からは病弱でノロマな私は学校で上手くできないと脅され、それを証明するかのように小3の担任から毛嫌いされ、担任がそんな扱いをするのだから当然、クラスメイトも私を軽蔑し、酷いイジメを受ける羽目になります。
何となく嫌な思い出として残っていた小3の記憶が、実は『卑屈な影子』が生まれる背景だったんですね。

改めて書いてみると、まだ10歳にも満たない子どもに無理なプレッシャーを課し、出来ないとヒステリックに脅し、さらにクラスメイト全員の前で恥をかかせるという、とんでもなく悪どいことを、当時の担任がやっていたわけです。
まだ幼い子どもだった私は、叱られる『自分』に原因があると思うしかありませんでした。
正しく改善する方法(例えば時間内に、自分に合わない量の給食を食べ終えるにはどうすれば良いのか?ということや、絵の具がどうして苦手なのか、どうやれば上手く使えるようになるのかということ)を、大人は誰も教えてくれないので、自分で考えて頑張るしかない。
結果、どうやっても給食は食べ終わらないし、どうやっても上手に絵の具が使えるようにならないし、間違えないように気をつけていてもうっかりミスがなくならない。
根性で改善しろ。二度とやるな。今度やったらもっと厳しく叱るぞ!
直接的にはそんな言葉を掛けられなくても、私にとってはそう脅されているのと同じ恐怖だったのです。

ぼんやりしている私は、そこまで深刻に考えていなかったので、とにかく先生の怒りが治まるまで身をすぼめているか、あまり目立つことをしないでじっとしていようと思うか、そんなところでした。もう少し物事をよく見られる力があったら辛くて自殺していたかもしれません。
今の小学生は深く考えられる子が多いので、むしろ深刻に悩んでしまい、生きるのが辛いと思ってしまうかもしれませんね。
その点、私は単純だったので、辛い時間がやり過ごせれば良かった。
ただ、単純だからこそ考えついた対策も単純で、『叱られる原因を作らないよう、ただただ身を潜めて静かにしていよう』ということでした。
それが私を今現在も苦しめている強烈な『影子の性質』なのです。

自分は同世代の集団の中で上手くできない。むしろ迷惑をかけてしまう存在。
家でも学校でも叱られて、悪い子だと言われて、頑張ってもどうしようもないので、出来るだけ余計なことを言わないように、余計なことをやらないように、目立たないように身を潜めている。
でも結局隠れきれずに、母から叱られ、教師から叱られ、友達からいじめられ、みんなの前で吊し上げられて……。

私の幼少期は、家庭も学校も、どうしようもない人間ばかりでした。
弱いものをイジメ、不器用なものを改善させるのではなく排除し、本人の根性だけでできるようにしろと脅し。
私の影子は、そんな中、本当によく頑張ったのです。
死にたくなるような辛い状況でも、きっと自分の思い過ごしと、明るく考えようとしていたのです。
悪いのは全て、大人だったのです。
何もできない影子の代わりに、大人になった私が抗議してやります。

よくも教師などと名乗れたものだ!
弱い子どもをいじめて、自分の鬱憤を晴らしていただけではないか!
教師なら、出来ない子に、どうやったら出来るようになるのか丁寧に教えることが役目だろう!
お前はその責務を放棄したダメ教師だ!
教師として失格どころか、人間として失格だ!

あの教師も、その指導が何のために必要なのかを全くわかっていませんでした。
そしてその通りに思い込まされた私の影子も、日々自分を叱責するのは、何のためなのかわかっていません。

叱責というのは、よほど危険なこと ー例えば、今止めなければ車に轢かれてしまうとかー を止めるためで無ければ、やたらと用いるものではないのです。
指導とは、叱責ではなく、解決方法を子どもと一緒に探っていくものです。

朝一番に不安に思う怯えた影子は、ただ、あのダメ教師の幻影に怯えているだけ。
その不安はいったい誰のため?
いえ、誰のためでもなければ、誰のためにもならない。
幻の教師が、私の想像の中で「ああ弱いものをイジメてスッキリした!」と言っているだけなのです。
そんな『人でなしの幻影』に媚びる必要などありません。
私は私のために、楽しく充実した一日を過ごせればいいのです!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?