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言い訳と注目引き

私は何かに没頭すると、我を忘れてしまうことがよくあります。
我を忘れるというよりも、時間を忘れてしまうんですね。我はむしろ忘れていなくて、我中心なのかもしれません。
最近、自分自身が楽しめていることが無いなと感じます。
おそらく楽しもうとすると、時間を忘れてしまうので、主婦として家事をこなさなくては!とか、次の約束までに終わらせなければ!とか、別のやるべきこと(自分の役割や義務)を優先させなくては!と意識が常にあるので、気が気ではないのかもしれません。
また、結婚してから、あるいは子どもを産んでから、妻として、嫁として、母親として、ずっとずっと時間に追われ、妻・嫁・母の立場に追われて来て、今さら「自由に好きなように過ごせる」感覚を取り戻すことはできない。
家族を持ってしまったら、自分中心の時間の使い方というのは、死ぬまで、あるいは独りになるまで出来ないのかもしれません。
それはそれで、仕方のないことなのですが、今自分自身が考える「心からやりたいこと」も、常に人がどう見るか、私のやることが人にどう役立つのか、という目的のために設定している感じがします。
没頭してしまったら、我を忘れて、周りに迷惑をかけてしまうから、それなら最初から、周りが受け入れてくれることに夢中になってみようと割り切っている……。
でもこれって、単に自分に『言い訳』しているだけなんでしょうね。
人の心が、人の注目が離れていくと、途端に寂しさや情けなさを感じてしまうのです。
ちがうな、何かちがうな、そんな気がします。

振り返れば、中学生の頃から、
「私が本当にやりたいことは何だろう?」と考えてきました。
絵を描くのが好きでした。
でも描いた絵が人から評価されないと、
なんだか虚しく感じてしまい、描くのをやめました。
文を綴るのが好きでした。
でもこれもまた、その文章を公開する機会がないと虚しく感じました。
どちらも、すぐにあきらめて、鍛練しないので、上手くはなりませんでした。
花が好きでした。花や植物の名前は、クラスの誰よりも知っていたと思います。けれど、周りの友達には、そんなことに興味のある人はいませんでした。なので、観察したり調べたりするのをやめました。
歴史が好きでした。しかも、すごくマイナーな地域のコアな歴史。
一人だけ、同じ趣味を持つ友だちがいました。二人で時間を忘れて語り合ったこともあったな。
でも分かり合えるのが二人だけだったので、卒業して別れたら、興味もなくなりました。
何か突出したもので、才能を開花させる人って、人の役に立つか立たないか、などと言い訳したり、人が見てくれないと寂しい、なんて思わず、時間を忘れて我に没頭した結果、大成するんでしょうね。
あ、大成とか考える時点で邪道かも?大成って言葉は、たいてい『多くの人が注目して、多くの人の役に立ったから』、みんながそう認めるものですからね。
黄熱病の研究に没頭して、黄熱病に罹って亡くなった野口英世なんて、偉人だとか何とか世間が言おうが言うまいが、我に没頭して、本望な人生を送ったと言えるのかもしれませんね。

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