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蒲生氏郷の辞世 戦国百人一首88

織田信長に見出され、豊臣秀吉を大いに助けた戦国武将、それが蒲生氏郷(1556-1595)だ。
洗礼名レオン。彼はキリシタン大名だった。
華々しく軍功を挙げて活躍し、最終的に92万石の大大名となった男。
だが、その割には戦国武将ファン以外には名が知られていない印象だ。
それは、彼が病のため早くに亡くなってしまったことが影響していると考えられる。

88 蒲生氏郷


限りあれば吹かねど花はちるものを心みじかき春のやまかぜ

花の命には限りがあるのだから、
風など吹かなくてもいつしか散るものだというのに、短気な春の山風だ

病を「山風」に自らの命を「花」に例え、その短い生涯を嘆いた。

「花が散るのは風のせいではない」と詠った少弐政資しょうにまさすけの辞世と比べると対照的で興味深い。

後の世に幸田露伴、山田風太郎らによって数ある戦国武将の辞世の中でも傑作だと高く評価されている。
勇猛果敢な戦国武将・蒲生氏郷は、学のある教養人でもあった。

彼の病とは、直腸癌もしくは肝臓癌らしい。
享年40。

・会津92万石の大領地に鶴ヶ城を持った。
・城は七層の天守を持ち、瓦には金箔が貼られた豪奢なものだった。
・黒川と呼ばれた町は城下町として開発され、「会津若松」となった。
・商業政策を重視し、定期市を開設、楽市楽座を導入、手工業の奨励を行った城下町は栄え、江戸時代における会津藩の発展の基礎となった。

華やかな城、商工業を重視して城下町を栄えさせた政策。
これらを聞いて、誰をイメージするのか。
そう、織田信長である。

氏郷は、信長の町づくりの手腕を間近で学んだ人物だった。

近江国蒲生郡日野の出身の蒲生氏郷。
父・蒲生賢秀は六角氏の重臣だったが、信長との戦いで1568年に六角氏が滅亡すると、信長に臣従した。
その際、13歳の鶴千代(氏郷の幼名)は、信長の元へ人質として送り出されたのである。

信長の小姓として仕えた氏郷は、信長にその非凡な才能を見出された。
信長を後見として岐阜城にて元服し、信長の娘・冬姫を娶った(異説あり)。しかも、そのあとに出身地の日野に戻されたという。
人質だった者に対して、信長は破格の待遇をしたわけである。

その後も氏郷は、信長家臣として朝倉攻め・姉川の戦い(1570年)に始まり、長篠の戦い(1575年)、有岡城の戦い(1578年)など多くの戦に従軍し、信長の期待に応える武功を挙げている。

そして、1582年に本能寺の変が起きた。
彼の主君、織田信長は重臣だった明智光秀に討たれた。

信長の死を知った氏郷はすぐに動いた。
父親の賢秀と連携し、安土城にいた信長一族を保護。
その後自らの居城・日野城に急ぎ、信長を討った明智光秀に対する戦闘準備を整えた。だが、明智光秀はその後羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)との山崎の戦いで敗死したため、結局氏郷は彼と対決せずに終わった。

同年、家督を相続した氏郷は、実質的な信長の後継者・羽柴秀吉の配下でますます戦功を挙げた。賤ヶ岳の戦い(1583年)、小牧・長久手の戦い(1584年)で活躍した後には伊勢松ヶ島に12万石を封じられた。
紀州征伐(1585年)にも加わり、九州征伐(1587年)では前田利長と共に岩石城を落城させた。討死覚悟で臨んだ小田原征伐(1590年)では敵将の夜襲に対して間に合わせに近くの者の甲冑を借りて奮戦したエピソードもある。

怒濤の大活躍は、秀吉の1590年の奥州仕置後、陸奧国会津42万石へ転封という形で評価された。さらに奥羽平定を果たして92万石を得る大大名へと急成長したのは、氏郷の優秀さを示す以外の何ものでもない。

会津とは、もと伊達政宗の領地であった。
氏郷が会津に送られたのは、奥州にいた政宗への牽制の意味もあったという。秀吉は、難しいポジションにやり手の氏郷を送り込んだのだ。

一説には、氏郷の大活躍をかえって警戒するようになった羽柴秀吉が彼を、会津へ追いやったのだという。秀吉は、自分と同様に信長に見込まれた男・蒲生氏郷を徳川家康以上に恐れていた。
近くに置いておけば「今度は自分が危うい」と。

 1592年、秀吉による朝鮮出兵の際、蒲生氏郷は戦の前線基地となる肥前名護屋城へと参陣したが、陣中にて体調を崩してしまう。
そして一度会津に帰国したあと京にて養生した。
1594年の秋には大きな宴を催したというが、それに出席した誰もが彼の容態の悪さに目を伏せたという。
曲直瀬玄朔まなせげんさくを始めとする名医たちが派遣されたが、1595年2月7日、伏見の蒲生屋敷にて死没。

キリシタン大名であり、利休七哲りきゅうしちてつ(千利休の高弟7人の武将)の筆頭。長く生きれば、戦国の世を変えていた名武将だった。

辞世からは、彼の求めていたのではない時と場所で死んでしまう悔しさが聞こえてくる。