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少弐政資の辞世 戦国百人一首87

1441年、播磨守護・赤松満祐(あかまつみつすけ)が、有力守護を圧迫する将軍足利義教を謀殺し、その後幕府軍に討伐されて赤松惣領家は滅亡した。嘉吉(かきつ)の変である。
室町から戦国の世に生きた武将・少弐政資(しょうにまさすけ/1441–1497)は、その年に誕生した。
応仁の乱をあと二十数年後に控え、足利幕府が動揺していた時代だった。

87 少弐政資


 花ぞ散る思へば風の科ならず時至りぬる春の夕暮 

花が散るのは風のせいではない。
ただ春の夕暮れ時に散るべき時が来ただけだ。

「時至りぬる」と自らの死を受け入れようとする様子が、散りゆく花、春の夕暮れと相まって、この歌を美しい傑作にならしめている。

この人物は、もう一首辞世を残した。

善しやただみだせる人のとがにあらじ時至れると思ひけるかな

この歌も「時至れる」である。
またも少弐政資が自分の死を受け入れたかのように聞こえる歌だ。
なぜだ。武将として、それで満足なのか。

そこには、当時の九州での勢力争いにおける、まるでシーソーゲームのような少弐家の興隆と衰亡があった。

少弐氏は、平安時代末期にまで遡る古い家柄だ。
鎌倉時代に九州最大の御家人にまで成長し、北九州を拠点としていた。
室町時代になると、九州探題の一色氏、今川氏らと対抗。
さらに渋川氏が九州探題に就任すると、その援護を理由に侵攻してきた周防の大内氏と激しく対立した。

1468年、少弐政資の父・教頼が大内氏との戦いに敗れて自害し、政資が家督を継いだ。

当時、京は1467年から始まった応仁の乱のまっただ中であった。
少弐家と対抗していた大内家は、軍の主力を京都方面に回していた。

それを好機とした政資は、少弐家の再興を企んだのである。

1469年、政資は対馬の守護・宗貞国(そうさだくに)の支援を得て挙兵した。対馬から筑前に入って主力を欠いた大内軍を破り、大宰府を制圧。
大内氏に奪われていた筑前や豊前を取り戻し、朝鮮との貿易を開始して少弐氏の経済基盤を確立した。

政資を助けた宗貞国の宗家とは、対馬の守護・少弐家に仕える守護代であり、没落していた間も少弐家を支えてきた家系だった。
しかし、貞国は功績に対する報償の少なさに対する不満、また肥前で貞国軍が大内軍の迎撃によって大敗したこともあり、1477年には政資からの出兵要請を拒否し離反した。

同年には応仁の乱が終結し、大内政弘が主力軍を連れて周防に帰還した。
宗貞国からの支援を失い劣勢となった政資は、本拠を筑前から肥前に移さざるを得なくなる。

だが、政資は肥前で現地の実力者・千葉家の内紛に介入し、弟と千葉家の娘との婚姻を成功させて千葉家を傘下に収めることに成功した。
肥前で力をつけると、九州探題の渋川家を肥前から追放後、1494年には肥前の大半を制圧して、再び大内氏の筑前に侵攻し始めたのである。

舞い戻ってきた少弐政資に驚いた大内義興は、すぐに10代将軍・足利義稙に少弐政資追討令を出させた。
そして義興は、1497年に重臣・陶興房(すえおきふさ)を大将とする大軍をもって本格的な少弐家討伐に取りかかったのである。

大内氏による全面攻撃に、少弐政資はまたもや筑前を放棄し肥前に退避した。だが、大内氏の執拗な追撃を受け、逃げ込んだ千葉家の本城・晴気城も落城と相成った。敗走した政資は西部の梶峰城(佐賀県多久市)へ向かう途中に、追撃によって嫡男の高経を失っている。

ようやく梶峰城に辿り着いた政資だったが、今度は傘下にあった城主の多久宗時(たくむねとき)に裏切られ、城を脱出せざるを得なくなった。
牛津川河岸で追撃された政資は、専称寺に逃げ込み、ついに自刃したのである。享年57。

幾多の攻防で、優勢から劣勢に落ち、また盛り返したかと思えば追い込まれたシーソーゲーム。
一時は少弐氏の中興を為した少弐政資だったが、その命脈は尽きた。
何度も危ない状況から復活を遂げた政資だったが、専称寺で「ついにくるべき時が来た」と感じたのかもしれない。

辞世には、少弐政資の心の内の「無念さ」と、いつかやってくると覚悟していた「時至る」の状況に、ついに対面してしまった諦めが感じられる。