見出し画像

今川氏真の辞世 戦国百人一首㊲

今川氏真(1538-1615)は駿河国・今川氏の第12代当主である。
前半は大名、後半は文化人として生きた。
父・今川義元が桶狭間の戦いで敗死した後に、武田信玄、徳川家康から駿河に侵攻されて敗れ、今川家を滅亡させてしまった人物だ。
蹴鞠ばかりが得意な暗君であるという印象が強いが、駿河国内の政治・経済政策で活躍していたことが見直されつつある。

37 今川氏真

     悔しともうら山し共思はねど 我世にかはる世の姿

(地位や名誉を失ったことを)悔しいとも(人を)羨ましいとも思わないが、私が生きるこの世はなんと変わってしまったことだろう

確かに、彼が言うように氏真を取り巻く情勢や彼の境遇は大きく変わった。大名だった彼は、国を失って妻の実家の世話になり、かつて人質にしていた人物に500石の扶持を与えられ、主従逆転して養われた。
後半生は戦いを忘れ、文化人として和歌や蹴鞠を愛する人生を送ることとなったのだ。

1560年の桶狭間の戦いで氏真の父親の義元が討取られ、多くの重臣を失った。今川氏の人質・松平元康(のちの徳川家康)は合戦後に独立し、今川家と断行して織田信長と1562年に清洲同盟を結んでしまった。

今川氏の同盟国だった甲斐の武田信玄にも関係を解消され、駿河侵攻されてしまった。敗走した今川氏真は逃亡先の掛川城を徳川家康(松平元康から改名)軍に攻められて開城和睦。
その後、妻・早川殿の父・北条氏康を頼り、1571年の氏康の没後は徳川家康を頼った。

北条家から出奔する際に詠んだ彼の代表的な歌がある。

なかなかに 世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科(とが)にして

世や人を恨んでもしかたない。 時代に合わなかった自分が悪いのだから

彼の辞世に通じる「潔さ」とは別種の「諦め」の境地が既に彼の心を占めていたのがわかる。

家康は、北条氏を離れた氏真を駿河統治の大義名分を得る目的で保護した。氏真と家康との主従関係はすっかり逆転である。

氏真は軟弱だったのかというと、決してそんなことはない。
塚原卜伝に新当流を学び、剣は皆伝の腕前だった。
剣豪将軍と呼ばれた将軍・足利義輝の兄弟子である。
少なくとも「武芸」としての剣術の腕前はあったはずである。
また、武将として合戦で大きな失態を冒した事実もない。

父親の仇である織田信長の前で蹴鞠を披露した軟弱者と誤解されるが、蹴鞠の嗜みもあった信長が讃えるほどの腕前の持ち主だったのだ。
剣術の腕前も考え合わせると、運動神経は良かったはずだ。
和歌は、室町から江戸時代にかけて活躍した歌人を選ぶ集外三十六歌仙に入るほどの実力で、1600首以上も詠んだ。
つまり、幼い頃からひと通り豊かな教育を受けた上級教養人だったのだ。

さらに大名時代の領地経営については、織田信長よりも先に楽市令を布く先見の明があり、他大名による楽市令に影響を与えたほどだった。

氏真は、徳川家康から500石の所領を与えられて養われたが、その所領を継承しながら今川宗家は江戸幕府の「高家」となって明治まで直系子孫が存続した。長い目で見れば今川氏真の子孫は敗者どころか成功者と言えそうだ。

氏真は77歳で江戸にて死没している。