斎藤義龍の辞世 戦国百人一首㉝
斎藤義龍(1527-1561)は、1556年に父親の斎藤道三を討って美濃国で斎藤氏の第2代の当主となった。
どんな理由であれ「父親殺し」の罪の重さをわかっていたのだろう。
道三と戦う決意をした時には「范可(はんか)」と自称した。
これは、中国・唐代にやむを得ない事情で父親殺しをした人物の名前である。父の死後は、「斎藤」の名を避けるように母親の実家である足利氏の一門・一色氏を名乗った。
三十餘歳 守護人天 刹那一句 佛祖不傳
三十余歳まで 人と天を守護してきたが 仏祖より伝えられたものではないということを一句に残す
斎藤道三の側室・深芳野の息子であり、斎藤家の嫡男だった。
父親の道三は、1554年に突然家督を義龍に譲り、出家して鷺山城に隠居している。
これは、どうやら道三による自発的なものではなく、主君や美濃国の統治者として相応しくないと家臣に反対されたために無理矢理隠居させられたというのが本当らしい。
道三は嫡男の義龍よりもその弟たちの孫四郎や喜平次らのほうを可愛がった。しかも、義龍の父親は本当は道三の主君である土岐頼芸(ときよりのり)ではないかという噂もあったという。
義龍の母・深芳野はもともと頼芸の側室だったのが、道三に与えられたものだったからである。義龍の父親が頼芸だという確証はないが、義龍と道三とのは険悪な間柄は本当だった。義龍は道三には愚かと呼ばれ、軽んぜられてもいたようだ。
義龍は悔しい思いをしただろう。
可愛がられる弟たちと違う母を持ったことをどう受け止めたのか。
自分が道三の主君である土岐頼芸の息子だと思い込むことが慰めになったろうか。
ついに道三は義龍を廃嫡して、正室の小見の方の息子である孫四郎を嫡子にしようとした。
そこで義龍は弟たち孫四郎・喜平次らを殺害し、道三に対して挙兵し、1556年の長良川の戦いとなった。
「無能」とさんざん侮っていた道三だったが、戦での息子の采配の良さを見たとき、それを後悔したという。
道三は討取られ、義龍が父親との勝負に勝った。
が、義龍は「父親殺し」の汚名と共に生きていくこととなったのである。
その後、義龍によって内乱によって荒れた美濃国内の整備がなされた。
また、一色氏(斎藤氏)として将軍・足利義輝により相伴衆として正式に幕府の役職にも就いた。家中においては、宿老による合議制を導入するなど、家中の整備にも尽力している。
ただ、織田信長の侵攻もあり、勢力拡大までには至らなかった。
義龍は奇病にかかり、1561年に急死。
死因は明確ではないが、ハンセン病だった可能性も指摘されている。
享年35。