大内義長の辞世 戦国百人一首73
戦国百人一首72で紹介した大内晴持に続き、同じ大内義隆の猶子(養子)となった大内義長(1532-1557)。
ただし、彼の場合は晴持のときほど恵まれた条件での親子関係ではなく、その短い生涯も悲劇的である。
誘ふとてなにか恨みん時きては 嵐のほかに花もこそ散れ
人に誘われて死に追いやられても何を恨むことがあるだろう。
時が来れば、花というものは嵐が吹かなくても散っていくものなのだから。
義長は豊後国のキリシタン大名・大友宗麟の異母弟であった。
さて、大内義隆は1543年に、家督を継がせる予定だった養嗣子の晴持を初陣で亡くした。そこで、豊後の大友義鑑(おおともよしあき)の次男だった大友義長を猶子としたのである。
ただ、これは晴持のときの養嗣子(ようしし)とは条件が違った。
義長が義隆の家督を相続できるのは、「義隆に実子が誕生しなければ」の話である。
そして実際に義隆に実子が誕生した。
たちまち義隆と義長の猶子の関係は解消され、義長は帰国させられたのである。
この縁組み解消劇は、大友氏はもちろん九州の諸大名にも衝撃を与えたとされる。極めてビジネスライクな関係だった。
実際には大内家内部では、義隆が晴持を亡くした頃から弱体化が始まっていた。
1551年、義隆の重臣・陶晴賢が謀反(大寧寺の変)を起こし、義隆と実子・義尊を討ったのである。
しかも、翌年には陶晴賢が義長を大内家の新当主として迎えている。
実際には、義長は晴賢の傀儡(かいらい/操り人形)ではあったが。
つまり、大内家の当主は大内義長であるが、実質の権力は陶晴賢が握っていたのである。
義長は自分が傀儡当主となることを知っていながらも
「この要望を受け入れずに中傷されることのほうが悔しい。自分の命は惜しまない」
としてあえてその要望を受けたのだ。
しかし、晴賢の活躍も長くは続かなかった。
1555年、毛利元就と対決した厳島の戦いにて陶晴賢は敗死する。
晴賢亡き後の大内家に残されたのは、傀儡当主としての大内義長だった。
かつての「解消された養子が出戻ってきた当主」の義長では、大内家をまとめることは難かしい。
家臣団は崩壊し大内家は衰退した。
時は既に遅く、義長が兄の大友宗麟に助けを求めても、毛利と結んでいた彼が弟の要求に応じることはなかった。
1557年、毛利が山口に侵攻。
義長は懸命に防戦したが、ついに大内氏の高嶺城(こうのみねじょう)を放棄し重臣・内藤隆世の且山城(かつやまじょう)へ敗走した。
且山城が毛利軍に包囲されると、隆世は義長の助命を条件に開城して自刃。しかし、義長も長福院(現在の功山寺)に入ったあとに毛利軍に囲まれて、陶晴賢の子・陶鶴寿丸らとともに自害したのである。
大内義隆の猶子としての申し出を受け入れ、
破談となればそれを飲み、
傀儡当主として大内氏に迎えられれば、それを甘受した大内義長。
しかし、彼は大内氏の真の当主として認められることはなく、ただ、毛利に突きつけられた「自刃」という選択しか残されなかった。
彼の辞世には、それでも「花は散るものだから恨まない」とある。
運命を受け入れ続け、最後に26年で終える自分の生涯をも受け入れた青年の短い一生だった。
義長の死をもって西国の名門大名家・大内氏は滅亡している。
(*大友義長、陶晴賢は改名後の名前だが、記事内の名前はこれらで統一した)