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伊賀崎治堅妻の辞世 戦国百人一首74

名前もわからない女性の辞世である。
そもそも武将・伊賀崎治堅(いがさきはるかた)の名を知っている人も多くはないだろう。
伊賀崎治堅妻(生没年未詳)は、豊臣秀吉が天下人だった時代の武将・伊賀崎治堅(?-1598)の妻だった。

74 伊賀崎治堅妻

死出の山したひてぞゆく契り置きし君が言葉を道の枝折(しおり)に

約束を交していたようにあなたを慕い、あなたの言葉を目印にして死出の山へと向かいます。

これは悲しい死の連鎖の話である。

毛利元就の孫・毛利秀元には、冷泉元満(れいぜいもとみつ)という家臣がいた。さらにその元満に使えていたのが伊賀先治堅である。

1597年、秀吉による2度目の朝鮮出兵(慶長の役)が始まった。
治堅は冷泉元満に従って朝鮮に出兵したのである。

翌年12月22日の明け方、蔚山で築城中だった毛利軍は、明軍の急襲を受けた。そこで、冷泉元満も多くの毛利家家臣や将兵たちと共に戦死してしまったのである。これは蔚山(ウルサン)城の戦いと呼ばれる。

元満の優秀な家臣だった伊賀崎治堅、白松時勝、吉安言之の3名は、その戦闘があったときには、任務のために別の場所にいたのである。

3人は主君の一大事を知り、昼夜を問わず馬をとばして駆けつける。
しかし、現場に到着した時には、すでに敵もその場から引いてしまっていた。

すでに戦う相手さえいなかったのである。

治堅は嘆いた。
自分が片時も離れず仕えてきた主人の大事の際に、同じ場所に居合わせなかったことを深く悔いたのである。

そして彼は吉保、白松と共に十字腹を切り(腹を十文字に搔ききる切腹)、殉死してしまった。

さて、治堅には日本にお互い19歳と15歳の時から仲睦まじくしていた妻がいた。治堅が朝鮮出兵する際には、彼が航海や戦闘で死んでしまう可能性を考え、何かがあっても2人は次の世でも一緒に生きようと誓っていた。
それほどの深い絆で結ばれた仲だったのだ。

妻は夫の訃報を聞いて、彼女は自分も夫の後を追うことを決意した。
彼のいないこの世には終わりを告げて、約束通り、来世でも一緒に生きることを願ったのである。

当時の仏教の教えでは、女性の成仏は難しいとされていた。
そこで彼女は、日蓮の教えで女性でも救われると説かれた法華経に頼った。
これまでの罪科が許されるよう祈り、夫と同様に浄土に迎え入れられることを願って経誦(きょうず)したのである。

最後に経典の表紙の裏に書き付けたのが上記の辞世だった。

彼女は最後に念仏を唱えると、守り刀を抜いて胸に突き立て、自らの命を断ってしまったのである。

遠く朝鮮の地で亡くなった夫の妻は、海を隔てた日本の周防国問田(すおうこくといだ/現在の山口市)にてその命を終えてしまった。

彼女の貞淑さと哀れさは、京の都にまで伝わり、地元の漁師や木こりをはじめとする多くの庶民たちも涙を流して悲しんだということである。

異国での討死から、殉死、そしてそのあとを追う日本に残された妻の死。

なぜこうまでして死が連鎖していくのか、現代ではなかなか考えられないことであるが、それを愚かだと誰が笑えるだろう。