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細川ガラシャの辞世 戦国百人一首㉞

明智光秀の娘であり、細川忠興の正室であった細川ガラシャ(1563-1600)は、キリシタンだった。
ガラシャは洗礼名であり、本名は珠(たま)である。
非常に聡明な美女だったとされている。

細川ガラシャ

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なり 人も人なり

桜も人も散るべき時を知っているからこそ桜であり人というもの。
これが世の習いなのですよ。

内容もリズムもとても鮮やかな歌である。
どこか凜々しく、清々しく、潔い。

これが彼女の辞世であった。
キリシタンであるために自害できなかった彼女は、家臣に自分を殺させて最期を迎えた。

ガラシャにとってこの世はどんな世界だっただろうか。
もともと夫である細川忠興とは仲の良い夫婦であったが、そのうち彼女と忠興との関係も、彼女の人生そのものもうまく回らなくなっていった。

1582年にガラシャの父親・明智光秀は織田信長を討った。
山崎の合戦のあと明智光秀が羽柴秀吉に敗れると、夫の細川忠興は謀反人の娘である珠(のちのガラシャ)を幽閉した。
のちに赦されて細川家の大坂屋敷に戻ったものの、完全な自由の身ではなかったようである。

その間にキリスト教の教えに目覚めたが、タイミングが悪かった。
秀吉が1587年に伴天連追放令を出していたのだ。
珠は、イエズス会宣教師の計らいで自宅でキリシタンの侍女から洗礼を受けてガラシャという洗礼名を与えられた。
キリシタンとなったことを忠興に告白すると、忠興は激怒してガラシャに棄教を迫ったが、聞く耳を持たない彼女の態度にあきらめてしまったという。
忠興から辛く当たられるガラシャは夫と別れることを望んだ。
しかし、キリシタンの離婚は認められないため、それも適わないのである。

忠興はかなり嫉妬深い男だった。
美しいガラシャが他の男に、特に秀吉に見初められることを警戒する一心から、朝鮮出兵中に彼女へ露骨に釘を刺す歌を送っている。


なびくなよ 我が姫垣の 女郎花(おみなえし)
男山より 風は吹くとも

姫垣(背が低く人が出入りしやすい垣根)の中にある女郎花(ガラシャ)よ、男から言い寄られてもなびくなよ


この歌には美しい妻への愛情というよりも、むしろ独占欲ばかり感じられて仕方ない。

それに対するガラシャの歌が以下である。

なびくまじ 我がませ垣の 女郎花(おみなえし)
男山より 風は吹くとも

ませ垣(杭が見えないように柴で隠したような垣根)の中にある女郎花(私)は、男から言い寄られてもなびいたりはしない

聡明な彼女は、あえて「なびくなよ」→「なびくまじ」、「姫垣」→「ませ垣」へと変えただけの歌でぴしゃりと返歌している。

秀吉の死後、忠興が徳川家康に従って上杉征伐に出陣している間に、石田三成が挙兵した。
三成は忠興の留守を狙い、正室・ガラシャを人質にしようと使者を送ったが、彼女は拒否し死を選んだ。
キリスト教の教えでは自殺は禁じられていたため、家老の小笠原秀清に自らを殺させたという。
遺体が敵方に奪われぬよう屋敷を爆破する念の入れようだった。
こうしてガラシャは自身の壮絶な死によって細川家の面目を保ったのだ。

神父・オルガンティノは、細川屋敷の焼け跡から彼女の骨を拾って葬った。
のちに忠興は、ガラシャの細川家への忠節を悼み、オルガンティノに依頼して教会葬を行っている。そして彼女の遺骨を大坂の崇禅寺へと改葬した。

ガラシャと忠興。2人の間には少しでも愛情が残っていたのだろうか。