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真田幸村の辞世 戦国百人一首70

真田幸村(1567?-1615)の名前は通称とされており、諱(いみな/実名)は信繁(のぶしげ)である。
本人が「幸村」と名乗った記録はない。
が、ここではよく知られる幸村で統一することにする。
幸村の生年については候補がいくつかあり、前半生についてはよく分かっていない。亡くなった時が45歳くらいだったと言われる。

幸村は「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と呼ばれ、大坂夏の陣の時に、あともう一歩で徳川家康の首を取るところまで迫った武将だ。

70 真田幸村

定めなき浮世にて候えば 一日さきは知らざることに候

確実なことなどないこの世なのだから、明日のことは分からないものです
(私たちなど、この世に無いものだとお考えください)。

無常観に満ちた辞世は、死の直前に詠まれたものではないだろう。
むしろ戦に出陣する前に既に固めていた彼の決意を表している。

まるで、幸村が死に場所を探すために出陣するように。

その証拠に、真田家の旗印は六文銭だ。

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                (ウィキペディアより)

これは、三途の川の渡し賃「六文」を意味する。
この旗印を見た敵将たちは、命を惜しまぬ幸村と怖いもの知らずの隊の兵士たちに恐れおののいたという。

戦えば強く、頭も切れる。
敗戦が予想された豊臣方についた、忠義者で人情に厚い人物でもあった。

武勇談は、後世の軍記物や講談などで脚色された。
現在でも猿飛佐助や霧隠才蔵などの真田十勇士たちを従え、徳川家康に挑むヒーローとして多くの人々を魅了している。
しかし、それは彼の実像をかなり誇張して描かれたものだ。

幸村は1600年の関ヶ原の戦いの際は、父・真田昌幸とともに西軍として出陣している。
幸村の実兄・信之は徳川方、つまり東軍についた。
父子、兄弟で東西を分けたのだ。

関ヶ原の戦いで東軍が勝ったとき、西軍についていた真田幸村は昌幸と共に死罪を命じられるところだった。
しかし、兄・信之と彼の舅である本多忠勝が取りなしたおかげで、高野山配流に留まった。
その後和歌山県北部の九度山に移り、1614年の大坂冬の陣まで長く蟄居し、父・昌幸の病死もそこで看取った。

幸村は、長い配流生活で気力を失い、病がちとなって死んで行った父親を見て、自分はいかにして死ぬべきかを考えていたに違いない。

豊臣と徳川の決戦の時に九度山を降りた。
1614年、大阪冬の陣では出城「真田丸」に籠り、鉄砲隊を率いて徳川勢に大打撃を与えている。

1615年の大坂夏の陣。
幸村は、率いる隊が指示通りに動かず作戦を断念せざるを得なかった。

その時、幸村の心は辞世の通り「いかに死ぬか」に集中したのである。

他の敵には目もくれず、ただ徳川家康の首を狙って本陣に向かう決意で、凄まじい攻撃をしかけた。
その勢いが真田隊のみならず豊臣軍の他の部隊にまで伝播し、味方は多いに奮戦。徳川方は総崩れとなったのである。

真田隊は、目の前にたちはだかる敵部隊を次々と突破し続ける。
家康の親衛隊を蹴散らし、2度本陣に突入。
家康本陣にあった馬印(戦陣の中で武将の所在を示す旗印に似た機能を持つ)を倒すまでに至った。

家康は恐怖のあまり自害を覚悟したという。
しかし、真田隊は家康の首を取るまでには至らなかった。

激しい突撃は兵力を消耗した。

幸村は、現在の大阪市天王寺区にある安居神社の境内で休憩を取っていたところを徳川方の越前松平家鉄砲組頭に発見された。
幸村は抵抗せず首を差し伸べ、自分の首を落とさせたと言われる。

(幸村の最期については、近年発見された史料を元にした異説もある)