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安国寺恵瓊の辞世 戦国百人一首82

安国寺恵瓊(あんこくじえけい)(1539–1600)は臨済宗の僧侶である。毛利家の一外交僧から豊臣秀吉の側近へとのし上がり、関ヶ原の戦いで敗れた西軍の首脳として、石田三成、小西行長らと共に京都の六条河原で斬首された。

82安国寺恵瓊

清風払明月 明月払清風  
清らかな風が明月を払い清め、明月の光が清らかな風を払い清める

彼の辞世は、対句となった漢文である。清廉な夜空の明月の光があり、そこに清らかな風が交錯するように吹き過ぎる秋の夜を詠んだ。

これは原因が結果となり、結果が原因となるその一体感を述べた禅語で、恵瓊によるオリジナルではない。
いかにも秋らしく颯爽とした情景だが、彼は、自分の死の直前の心境を禅語に見出し、それを辞世としたようだ。

恵瓊はただの僧侶ではなかった。
清和源氏を祖とするあの武田信玄を生んだ武田氏の分派、安芸武田氏の一族の出身。つまり名のある武家の出身だった。

1541年に毛利元就によって安芸武田氏は滅亡してしまったが、そのときに逃亡し、安芸にある安国寺にて出家したのだ。
のち安国寺、京都の東福寺・南禅寺の住持も務め、禅宗の最高位にもついた。

彼の師が竺雲恵心(じくうんえしん)という毛利家の外交僧だった関係で、弟子の恵瓊もそれを引き継いで毛利の外交僧となり、毛利家の中でも特に小早川隆景に重用されることになった。

羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が1582年に毛利の備中高松城を攻めている最中、京で本能寺の変が起きて織田信長が亡くなった。
その一大事を知った秀吉は、一刻も早く都へ戻るために信長の訃報を悟られぬよう毛利方と和睦を結ぶ必要があった。
その折衝をおこなうために秀吉側から送り出された人物が軍師の黒田官兵衛だが、毛利方のネゴシエーターとして登場したのが恵瓊である。

のちに秀吉は信長の実質的後継者として天下を取るが、その彼の政権内で恵瓊は大きく出世した。僧侶でありながら豊臣秀吉の側近大名でもあるという特殊な位置づけとなる。武将としての禄はないが、代わりに安国寺に寺領が与えられていた。このように彼が秀吉に認められたのは、備中高松城での素早くスムーズな和睦交渉を進めた功績も関係していたことだろう。
もちろん恵瓊自身も秀吉の下で大伴氏・毛利氏の和睦締結、検地、小田原征伐への参陣などでかなり活躍していた。

しかし、秀吉亡きあとの関ヶ原の戦いで恵瓊は判断を誤った。
石田三成ら西軍と徳川家康の東軍の間で、彼は西軍を選び、西軍の総大将として毛利家の当主・毛利輝元を担ぎ出すことも成功した。
合戦には、自身も毛利軍の毛利秀元や吉川広家と共に出陣した。だが実は前に布陣する吉川広家は西軍ながらも、密かに家康に通じていたのだ。
広家が毛利軍の参戦を邪魔したため、毛利軍は戦闘に参加できないまま西軍は敗北した。

敗北後に恵瓊は逃亡し、京都の六条辺りに潜伏していたところを家康側に捕縛された。そして石田三成、小西行長と共に六条河原で斬首され、さらし首に処せられたのである。

そんな恵瓊が予言を的中させたというエピソードがある。
1573年12月12日に毛利家の吉川元春の側近たちに向けた書状の中に

「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」
(信長の世は3年や5年ほどはもつでしょう。来年は公家の位階をえることにもなるでしょうが、派手に転んでしまうことになりそうに見えます。藤吉郎(のちの豊臣秀吉)はなかなかの者ではないかと考えております)

と記していたのである。
本能寺の変が起きて信長が死ぬ9年前のことだ。恵瓊はその洞察力で信長の危うさ、秀吉の巧みさを見抜いていた。

だがさすがの恵瓊も、関ヶ原の戦いの前に自分自身の未来を予言することはできなかったようだ。