上杉謙信の辞世 戦国百人一首94
戦国武将を語るときに、この人物を忘れるわけにはいかないだろう。
信濃の覇権を巡り武田信玄と川中島で長く争ったことで知られる、山内上杉家第16代当主上杉謙信(1530-1578)だ。
越後(佐渡を除く新潟県全域)の守護代だった長尾為景を父とする。
幼名、虎千代。元服ののち長尾平三景虎、そして政虎、輝虎と名乗ったため、「越後の虎」と呼ばれた。
「謙信」は仏門に入って名乗った法号である。
ほかに「越後の龍」、「軍神」とも称された。
簡潔で、漢文らしいキレがありながら「夢」や「栄華」という言葉のせいか、しなやかさと華やかさも感じさせる辞世である。
そんな「夢も栄華」も「一杯の酒」の中に取り込んでしまうところに、酒好きだったとされる謙信らしさを感じさせられる。
そして「四十九」が「一」に集約された潔さも。
上杉謙信は、どこかヒーローめいた人格者としての印象が強い戦国武将である。
曰く、
・戦歴は43勝2敗25分である
・戦いにおいてはかなりの戦術家であった
・攻撃への対抗や他から助けを求められた上での「義の戦い」はするが「欲のための侵略」をしなかった
・自らを戦の神である毘沙門天の生まれ変わりだとし、深く信仰していた
・生涯妻を娶らず不犯を守った(若い頃に恋をした敵将の娘との仲を引き裂かれたのが原因、もしくは信仰のため、中には謙信女性説などもある)
・多才(達筆、琵琶の名手、和歌の達人など)である
・領国経営に長け、衣服の原料となる青苧などの国内物産を全国に販売し、地元金山の運営を成功させた
などだ。
もちろんこれらの話には、事実と逸話が混ざり、異説があったり出典が一次史料でなかったりして、研究家の間では論議の決着がついていないものもある。が、一般的なイメージはこんなところだろう。
江戸時代に越後長尾氏つまり、越後上杉氏関係の古文書を編纂した『歴代古案』とよばれる書がある。その中にある武田信玄に仕えた僧の円昌坊教雅が1576年に越後の僧にあてた書状の記録には、信玄による言葉として上杉謙信について「太刀では日本無双の名大将」だとしたことが記されている。「太刀」とは「一対一の戦いで」という意味だ。
ちなみに、信玄と謙信による5回にわたる川中島の戦いの勝敗は、引き分けということになっている。ただ、最も激しかった第4次の戦い後には、信玄が軍に加わった武将への知行(褒美としての領地)について知らせる記録が残されている一方、謙信からは自軍の武将たちへのねぎらいの言葉のみだったとされることから信玄側の勝利だとする研究家もいる。
ただ信玄は、敵である謙信の実力を認めていた。だからこそ、彼は1573年の自分の死の前に息子の勝頼に「死後は謙信を頼るように」と言い残した。
頼られると必ずそれに応えようとする謙信の義理堅さを信頼してのことだった。
それにしても、ほとんどの戦いが私利私欲ではなく「義」であったなど、上杉謙信はそれほど人間的に出来た人物だったのか。
そうではない。
謙信の酒好きは、彼の人間的な魅力でもあり弱点でもあった。山形県米沢市の上杉神社には「馬上杯」という遺品が残っている。謙信は戦のときにも馬上で酒が3合も入ろうかという直径12cmほどのこの大杯で飲んでいたとされる相当な酒豪。謙信の死因は脳卒中だとされるが、味噌・梅干・塩を酒のつまみにしていたらしく、塩分の取りすぎが死因に繋がった可能性もある。織田信長との戦いのために出陣準備を整えていた1578年に厠で倒れ、亡くなってしまった。
そして後継者を決めないまま死んでしまったことこそ、彼が犯した大きな過ちだったのである。
妻帯しなかった彼には子はなかったが、養子があった。
しかし、謙信は養子の上杉景勝(長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)のどちらを後継者にするのかを宣言していなかった。そのため、彼の死後には「御館の乱」というお家騒動が勃発。2人の後継者候補をそれぞれ推す家臣たちにより上杉家は二分された。
争いは景勝勝利で終わったが、上杉家の軍事力は衰え、さらにそこへ織田信長が攻め入り、上杉家は滅亡寸前の大ダメージを受けてしまったのである。
謙信ほどの人物が、なぜ後継者決定を怠ったのか。彼の心中では決まっていたかもしれないが、現在のところそれを示唆する史料は見つかっていない。
死の予感があったのか、亡くなる少し前に謙信は自画像を描かせ、それに辞世の句を書き残していた。