見出し画像

別所長治の辞世 戦国百人一首㊿

「三木の干殺し」と呼ばれた「三木合戦」は、別所長治(1558?-1580)の自害で幕を閉じた。
享年23とも26とも言われる。
秀吉との戦いに敗れた若い城主が自害したのは、辞世に詠まれている通り「諸人のいのちにかはる」ためだった。

別所長治 50

今はただ 怨みもあらず 諸人の いのちにかはる わが身と思へば

今となっては、恨む気持ちもない。この我が身が多くの人々の命に代わるものだと思うなら。  

後世に「三木の干殺し」と呼ばれることになる兵糧攻めは、別所長治に過酷な決断を迫ることになった。そして、彼は自分が死ぬことで長年苦楽を共にしてきた多くの家臣たちの命を救うことを決め、潔く散っていった。

ではその「三木の干殺し」とはどんなものだったのか。

別所家とは、播磨守護・赤松氏の一族で、かつては東播磨三郡の守護代もつとめた名門の家柄だった。別所長治は父親が早世し、13歳で東播磨の三木城主となったが、そのとき既に別所氏は織田信長に従っていた。

1578年、長治は織田信長の毛利攻めにおいて先鋒を務めることになっていた。ところが、その司令官として羽柴秀吉が派遣されてくると、突然に反旗を翻して三木城に立て籠もったのである。

当初は長治の行動に困惑した信長だが、秀吉に三木城を完全包囲させた。

長治が信長・秀吉に盾ついた理由は明確ではないが、

・織田勢による西播磨の上月城の虐殺に納得しなかった
・成り上がりの秀吉が中国地方攻略の総司令官であることが不満だった
・1577年に加古川城で行った毛利討伐のための軍議(加古川会談)に長治の代理で出席した叔父の別所吉親が、秀吉と意見対立し、長治に信長からの離反を説得した
・実は、もともと協調関係にあった毛利氏に応じたもの

など多数の説が考えられる。

三木城の籠城は、諸籠(もろごも)りと呼ばれる兵やその妻子、領民も皆丸ごと城に籠るものだったため、多くの兵糧が必要だった。
そこで、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏や英賀城の三木通秋などによる物資や兵糧の海上輸送が行われた。
海沿いの高砂城や魚住城などで物資を陸揚げし、支城と連携して加古川や山間の道を利用して三木城に兵糧を運ぶ連携体制を取っていた。

しかし、秀吉は三木の城下町を焼き払い、長治側の支城を一つずつ攻め落とした上で、毛利からの援軍も封じ、三木城を完全に孤立させて城への補給路を断ってしまった。これが秀吉による「干殺し」の作戦である。

干殺しは、やがて三木城内を飢餓地獄に変えた。
城内では草木、犬猫、牛馬はもちろん、虫、蛇や鼠、木の根、木の皮、そして餓死した仲間の遺体までもがむさぼり尽くされ、至る所に飢えた兵士が倒れているという凄惨な状況となった。

三木城にもう勝ち目はなかった。
1580年1月15日、長治は自分・弟・叔父の切腹と引き替えに城兵たちの助命をすることを条件にして降伏を申し入れた。
翌日、その条件を受け入れた秀吉から酒肴が届けられ、城内の皆で最後の酒宴が行われた。

そして1月17日。
長治は3歳の幼児を自分の膝の上で刺し殺し、妻・照子を引き寄せて同様に刺し殺した。
弟の友之と共に広縁に出た長治は、家臣たちに向かい
「我々が切腹をして皆の命が助かるのであればこれ以上の喜びはない」
と言い残して切腹したのである。
介錯は家臣の三宅治忠(三宅肥前入道)が行い、彼もまた腹を十文字に切って殉死した。
弟の別所友之も切腹している。(『信長公記』による)

そしてその後、城内の者たちは助け出されたのであった。