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足利義輝の辞世 戦国百人一首㊹

足利義輝(1536-1565)は、室町幕府第13代将軍であった。
剣豪将軍とも呼ばれた義輝は、1565年5月19日、五月雨の降るその日に松永久通と三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)の約1万の軍勢に二条御所を襲撃され、奮闘の末に絶命した。
この事件は「永禄の変」と呼ばれる。

44.足利義輝

   五月雨はつゆかなみだか時鳥 わが名をあげよ雲の上まで

降りしきる五月雨はただの露だろうか、それとも私の(無念の)涙であろうか。ホトトギスよ、どうか私の名前を天高く広めてくれ

ホトトギスには、「時鳥」「不如鳥」などの漢字が当てられる。
昼夜関係なく強烈な鳴き方をし、冥土に通う死の使いとも信じられていた鳥だ。つまり、辞世にふさわしい。

この歌の作者・足利義輝は無念の思いと共に壮絶な最期を遂げた。

「剣豪」と呼ばれた将軍義輝は、御所に侵入してきた賊たちを鬼神の如く切り倒し戦いながら応戦した。刃こぼれするたびにあらかじめ畳に突き立てて置いた将軍家秘蔵の刀を次々と取り替えながら奮闘。
そのすさまじさに敵兵たちはまともに立ち向かうことができず、最後には畳・襖を楯にして義輝にかぶせ、その上から槍を突き立てて殺害した。

このような義輝の最期の様子を伝える逸話が知られている。
将軍の勇ましい戦いぶりにふさわしい名刀を次々と繰り出す華やかさと残酷さが混じった話であるが、創作の可能性が高い。

これは頼山陽による『日本外史』、作者不明の軍記『足利季世記』などを元にして生まれたものだと考えられるが、いずれの書も江戸時代後期に成立した話のため、鵜呑みにはできないのだ。

ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスの『日本史』によれば、

最初は将軍自ら薙刀を取って戦い、のちに刀で抵抗した。しかし、怪我をして地にふせてしまったところを一斉に襲いかかられ、殺害された。

太田牛一の『信長公記』には、

義輝が打って出て多くの三好方の兵に傷を負わせ、切り倒したが、多勢に無勢であり、最後には御殿に火をかけ自害してしまった。

ともある。

義輝の本当の最期の様子の詳細はわからないのだ。
しかし、凄まじい戦いの中での死だったことは想像される。

義輝は、なぜこの戦いで死ななければならなかったのか。

彼が幼い頃から将軍家は管領家の細川氏の同族争いに巻き込まれ、戦で負ける度に京を逃れ、近江での生活を強いられていた。
ようやく、足利義輝が室町幕府第13代将軍として京に戻ったとき、室町幕府や将軍職そのものの権威は、かつての威光と比べて地に堕ちていた。
彼は、将軍としての本来の役割と力を取り戻したかった。

義輝は戦国大名らとの関係を密にし、有力者間の抗争には調停を行うなど積極的に武家の棟梁たる将軍であろうと努力した。
しかし、それは傀儡(かいらい/操り人形のこと)の将軍を使って幕政を牛耳ることを考えた三好義継、松永久通、そして三好三人衆にとって邪魔な存在でしかなかった。

彼らは義輝のイトコである足利義栄(よしひで)を擁立して幕政を牛耳ることを考える。そして、約1万の軍勢を率いて義輝の居城である二条御所に押し寄せて将軍に圧力をかけ、戦闘が始まった。

「剣聖」と呼ばれた兵法家・塚原卜伝に剣を学び、奥義「一之太刀」を伝授された剣豪将軍・義輝は、理不尽な要求に屈しまいと戦いを選んだが、最後には力尽きてしまった。

将軍義輝の死は朝廷・幕府だけではなく一般庶民にも動揺と怒りをもたらしている。1567年に行われた京の真如堂での義輝の追善供養には、7~8万人の群衆が参加してその死を悼んだという。