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武田勝頼の辞世 戦国百人一首66

病没した武田信玄の跡を継いだのは、武田勝頼(1546-1582)である。
もともと彼は「信玄の側室から生まれた四男」で、当初信玄の跡継ぎには予定されていなかった。
しかし、嫡男(義信)は死亡、二男(海野信親)は盲目、三男(信之)は夭折、と彼の兄たちは跡継ぎ候補から次々と外れてしまった。
「偉大なる武田家」を引き継いだ勝頼。
もしかしたら、これが彼の悲劇の始まりだったのかもしれない。

66 武田勝頼

朧なる月もほのかに雲かすみ 晴れてゆくへの西の山の端

ほのかに雲がかかって朧ろに霞んでいた月も、やがて晴れてゆき、西方浄土を目指して行くかに見える

「晴れて(浄土へ)ゆくへの」「行方(ゆくえ)の」の2つの「ゆくへ」が掛けられている。
死を意識した彼は目の前の景色を見ているようだが、実はもうすでに西方浄土を見つめていた。

勝頼は気の毒な武将である。
武田信玄という英雄の後に武田家を引き継ぎ、結果的に戦国大名としての武田家は滅亡してしまった。
その責任を全て勝頼が背負わされてしまったような印象がある。

勝頼個人は、臆病でも戦下手でもない。
1563年の上野箕輪城攻めが初陣で、さっそく敵の長野氏を追撃して家臣を討取り、その後も武功を挙げている。
信玄の晩年に近い戦にもほとんど従軍。
強敵との一騎打ちにも果敢に臨み、1569年の小田原城攻めからの撤退戦では殿(しんがり)という難しい役目も果たした武勇の将なのだ。

四男であるから、庶子(妾の子)であるからという引け目や、やけっぱちや諦めなどは微塵もなく、ひたすら武田家に貢献している真摯な若武者の姿がある。

しかし、1575年5月の長篠の戦いで、勝頼率いる武田軍団1万5000の兵は、織田信長・徳川家康の連合軍約3万8000(両軍の兵数には諸説あり)に敗れた。
この敗戦で優秀な武将たちを多く失った武田軍団の実質的、精神的なダメージは大きかったようだ。

武田家に明らかな崩壊が起き始めたのは、徳川家が1580年の高天神城を攻略し始めた時だった。
徳川と高天神城を取り合いしていた武田は、信玄時代に大軍を用いても落とすことのできなかった高天神城を、落城させていた。
それを徳川が奪回に来たのである。

武田勝頼が本国・甲斐から徳川領内にある高天神城へ救援の手を差し伸べることは、至難の業となっていた。
徳川方が妨害したので救援物資が送れない。
しかも、武田家は関係崩壊した北条氏と戦闘中で助けを送る余力がない。
同盟していた上杉景勝が、織田氏との戦いで武田の救援ができなかったこともある。

高天神城側からは、勝頼に書状が届く。
城将の岡部元信をはじめとする、多くの家臣たちが連名した救援要請の書状だ。

しかし、勝頼は動けなかった。
結果的に高天神城を見殺しにせざるをえなかった。
1581年3月、城はついに陥落した。

勝頼の信頼は失墜した。
家臣を見捨てた主君である。

家臣や国衆にとって武田氏は、もはや泥舟も同様だった。
次々と仲間が武田から離れていった。
そんな時に、織田信長は武田攻めを始めたのである。

勝頼が作った新府城は焼け落ち、さらに多くの家臣が離脱して勝頼は孤立した。
そして勝頼は落ち延びた天目山で、妻子、家臣たちと共に自刃したのである。