見出し画像

だし(荒木村重室)の辞世 戦国百人一首56

『戦国百人一首55』で荒木村重に見捨てられた、荒木の重臣・池田和泉の辞世とその死に至るまでの背景を説明したが、ここにもう一人の犠牲者の辞世を紹介したい。
それが、荒木村重の妻・だし(1558?-1580)である。

だし 決定

  残しをくそのみどり子の心こそ おもひやられてかなしかりけり 

   この世に残して行く子の心をおもいやると、哀れで悲しい

だしは、おそらく石山本願寺に仕えた川那部氏の娘で、村重とは20歳以上も年の離れた若い側室ではないかと考えられている。
「だし」と呼ばれる城郭の出丸や出城部分に居住していたのが、彼女がそう呼ばれた由来らしい。

彼女の外見については、複数の史料が「美人」「一段美人」「今楊貴妃」と記録していることから、かなりの評判の美人だったことは間違いなさそうだ。

さて、そんなにも若く、美しい妻のことを荒木村重は裏切った。

1578年の有岡城の戦いで、荒木村重は織田信長に謀反をおこした。
戦況が不利になると、村重は城から脱走。
城に取り残された村重や家臣たちは見捨てられた。
信長との有岡城開城後の交渉も拒否したため、だしを含めて人質となった城内の妻子、肉親、関係者全てが処刑されたのだ。

この辺りの経緯については『戦国百人一首55』の池田和泉の項をご覧いただきたい。

だしは12月16日、他の荒木村重の身内の者たちと一緒に京都へ護送され、市中を引き回しとなった。
それでも彼女は大名の妻として最期まで恥ずかしくない態度に徹したという。
死に装束の経帷子の上に華やかな小袖をまとった彼女は、さすがに美しかった。処刑場の六条河原に到着し、車から降りると帯を直し、髪を整え、襟を開いて斬首のために首を差し出したという。

他の妻女たちも彼女を見習い、覚悟を決めて気高い態度で最期を迎えた。
処刑された者の中には、荒木村重の子たち、人質解放の交渉失敗で逃亡した荒木久左衛門の息子、池田和泉(『戦国百人一首55』の人物)の妻もいた。

その他の人質たちのうち122人は磔に、512人が4軒の家に押し込められ、火を放たれて焼死した。合計600名以上もの人々の命が処刑で消えた。

彼らを犠牲にして逃げた荒木村重がその後どうなったか。
なんと、彼は信長の死後も生き延びた。
茶人として第二の人生を歩み、利休七哲(茶人・千利休の7人の高弟たち)の1人にまでなったという。

だしは生前、有岡城で人質として日々を送るうちに覚悟を決めて多くの歌を詠んでいる。

 消ゆる身は惜しむべきにもなきものを母の思ひぞ障(さわ)りとはなる

消えていく自分の身は惜しくないけれど、子を思う気持ちが往生の妨げになります
  木末(こずえ)よりあだに散りにし桜花さかりもなくて嵐こそ吹け

盛りにもならないうちに嵐が吹いて、梢から無駄に散ってしまう桜の花のような夫婦の仲でした
    磨くべき心の月の曇らねば 光とともに西へこそ行け

心の中の月は磨いて澄んでいますから、その光とともに西方浄土へ行きます

いずれも彼女の辞世だ。
どの歌にも深い悲しみと絶望が漂っており、歌から見えてくるのは、彼女の目の前に突きつけられた「死」でしかない。