細川忠興の辞世 戦国百人一首㉟
ガラシャの辞世を紹介したあとは、その夫の細川忠興(1563-1646)の辞世を紹介しよう。
彼は1578年、織田信長の仲介により京都・長岡の勝竜寺城で明智光秀の3女・珠(ガラシャ)と結婚した。
当代随一の美男美女のカップルだったという。
皆共が忠義 戦場が恋しきぞ いづれも稀な者どもぞ
皆どもが忠義を見せた戦場を恋しいと思う。皆、稀有な尊い者たちだった
忠興が亡くなったのは1645年のこと。
すでに第3代将軍・徳川家光の時代であり、もう戦乱の時代はすっかり終わっていた。
彼の死は戦死ではなかったが、最後まで戦国武将の心意気を忘れることはなく、「戦場が恋しい」と言って世を去った。
これは、多くの者が命を落とした戦を肯定したものではない。
戦によって亡くなった家臣たち、その一族郎党たちへの思いを詠んだものだ。
戦死や自害など目の前に迫ってくる死に勇敢に立ち向かった「稀な者たち」の尊さに思いを馳せた歌だったのである。
おそらく細川家の名誉のために自害した妻・細川ガラシャのことも「稀な者たち」の中に含まれていたことだろう。
若いころの忠興は、なかなかアクが強く残忍な性格の武将だった。
気が短く、だまし討ちをしたり、敗残兵を皆殺しにしたこともある。
明智光秀には「降伏してくる者をむやみに殺すな」と諭されたほどだった。
その厳しい性格は、時に自分の妻であるガラシャや身内にも及んだ。
愛情が深すぎるために、朝鮮出兵中に戦地から何通もの手紙をガラシャに送り、秀吉に誘惑されないよう牽制した。
また、大坂の陣で敗戦した豊臣方についていた次男に対し、家康が許そうとしたにもかかわらず、忠興が父親自ら切腹を命じた。
彼の熾烈な性格を伝えるエピソードは数々ある。
一方で父親の細川藤孝(幽斎)と似て、教養のある文化人でもあった。
和歌、能楽、絵画、そして特に茶の湯に通じていた。
千利休のもっともお気に入りの弟子であり、利休七哲の一人であった。
忠興は利休が切腹を命じられたとき、同じ利休七哲の一人だった古田織部らと共に助命に奔走したが、かなわなかった。
そういった文化人としての教養とネットワークを駆使して情報戦に長けた戦上手でもあったようである。
晩年には性格もまろやかになり、徳川秀忠へは、
「(政務については)角なる物に丸いフタをしたようになされませ」
「(人材登用については)明石の浦の蠣殻のような(流れの激しい潮に揉まれた味の良い蠣のように人に揉まれた良い人柄の)人がよいでしょう」
とアドバイスしている。
後継者の3男・細川忠利には
「家臣は将棋の駒と思え。駒にはそれぞれの働きがある。何もかも一人でできる者などはそういない。何かに不調法でも、他のことで役立つこともあるということを主君として心得よ」
との名言も残している。
享年83。