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徳川家康の辞世 戦国百人一首68

徳川家康(1543-1616)の死因が「鯛のてんぷらの食べ過ぎ」もしくは「食中毒」という話もあったが、どうやらそれは誤解で、彼の体調不良の経過具合から胃がんだったのではないかと診断されている。

68 徳川家康

先に行くあとに残るも同じこと 連れて行けぬをわかれぞと思う

私は先に死出の旅に出るが、あとに残ったお前たちもいずれは同じように死ぬ身だ。だからといって、お前たちを死の道連れにはしない。お別れだ。

病に苦しみながらも、彼の頭脳は明晰だったのだろう。
家臣たちによる無駄な殉死を諫め、しっかりと別れを告げる意志がこもった歌だ。


さて、豊臣秀吉がまだ存命で関白職にあった頃、家康を含めた諸大名を集めて自分の宝物について自慢をしたことがあった。
その時秀吉は、家康にどんな素晴らしい宝物を持っているのか、と尋ねたという。

家康は答えた。

「私は三河の田舎生まれの武士ですから宝を持ちません。しかし、あえて言うならば、私に命を預けてくれる500騎の武士(もののふ)たちこそが秘蔵の宝です」。

家康には、三河時代から長く仕える忠義に厚い譜代の家臣たちが多く揃っていた。
彼らは「三河武士」「三河衆」と呼ばれ、その強さは日本全国に知れ渡っていたのだ。

家康は彼らのことを宝だと言ったのである。

この答えにさすがの秀吉も黙るしかなかった。


家康がそんな男だと知れば、家臣を思い、殉死を諫める彼の辞世にもうなずけるのではないだろうか。

駿府城で亡くなった家康の遺体は、彼の遺言通り駿府の久能山(くのうざん)に埋葬された。
上野東照宮、日光東照宮と並ぶ久能山東照宮は、三大東照宮の一つであり、徳川家康を神格化した東照大権現を祭神として祀っている。