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桂林院(武田勝頼室)の辞世 戦国百人一首67

桂林院(1564-1582)は、武田勝頼の継室である。
相模の戦国大名だった北条氏康の6女と言われ、北条夫人と記録に残るが、実際にどう呼ばれていたのかは分かっていない。
桂林院は法名である。
武田勝頼が天目山で自害したとき、彼女も運命を共にした。

またしても、武将の夫に最後まで付き従う戦国時代の妻がここにいた。
それが正しいのか間違いなのかを問題にしているのではない。
ただ、彼女の享年が19なのである。

67 桂林院

黒髪の乱れたる世にはてしなき おもひに消ゆる露の玉の緒 

世の中と人の心は黒髪のように乱れて果てしがない。
だが、死んで逝く自分の命は、はかなく消える露のようなものだ。

*玉の緒=玉を貫いたひものこと。命。

まさに「乱れて果てしない世の中」だったのが戦国時代だ。
この時代では、味方が敵になり、家族も敵になる。
修羅の時代に生きた女性が19の若さで散ってしまった。

武田勝頼には、美濃の国衆・遠山直廉(とおやまなおかど)の娘で織田信長の養女・竜勝院という正室がいた。
竜勝院は嫡男・信勝を出産した数年後に亡くなったので、その後に北条夫人つまり桂林院が勝頼正室となった。

北条氏康の娘・桂林院には北条氏政、上杉景虎(上杉謙信の養子で元北条三郎)を実兄に持つ。

1578年に、越後の上杉謙信が死んだあとの跡目争い「御館の乱」が発生。
この時武田勝頼は、桂林院の実兄・北条氏政からの要請で、同じく桂林院の実兄である上杉景虎を支持した。
しかし、のちに反対勢力の上杉景勝方が力を持つと、勝頼は景虎を裏切って景勝と結んだ。
勝頼に見放された上杉景虎は乱に敗れ自害し、武田氏と桂林院の実家である北条氏の関係は破綻している。

今度は武田氏に問題が発生する。
1582年、織田・徳川連合軍が甲斐へ侵攻してきたとき、武田氏と上杉景勝の間の甲越同盟がうまく機能しない上、武田家臣団に寝返りが相次いだのだ。

昨日までの家臣たちが次々去って行く中、桂林院は夫の勝頼に尽くし続けた。自分の兄や実家を見捨てた夫であっても、勝頼のために武田八幡宮に詣で、神仏に勝頼への助けを求めて夫への愛情あふれる願文を奉納した。

しかし、武田家の家臣たちの離反は止まらない。
ついに勝頼は重臣・小山田信茂にも裏切られたところで天目山での自害を決意した。
勝頼は妻・桂林院を北条氏の小田原城へ送り返そうとするが、桂林院はそれを拒否。

彼女は勝頼が死ぬなら、妻として死ぬ時は一緒にと考えていた。
また、夫が既に北条氏を裏切っていた以上、武田の妻である桂林院としては、今さら武田の危機に自分が都合良く戻れる実家がなかったのも事実である。

死ぬ直前、彼女は従者たちににこれまでの忠節をねぎらい、感謝の言葉をかけた上で、ひと束の黒髪と共に辞世の歌を実家の北条氏へ届けよと託したのである。

そして、19歳の妻は自害した。