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北条氏康の辞世 戦国百人一首⑯

⑮で紹介した北条氏政の父親が北条氏康(1515-1571)の辞世をご紹介する。
病で亡くなった。中風だったと伝えられる。

北条氏康

夏は来つ 音に鳴く蝉の 空衣 己己の 身の上に着よ

夏が来て鳴く蝉のぬけがらのように、各自それぞれが自分の身の丈のあった衣服を着なさい。

北条氏康とは、小田原北条氏の第3代当主だ。
上杉謙信や武田信玄と比べて知名度は低いかも知れないが、彼らのライバルともいえる人物。
非常なやり手だった。

1546年、上杉氏に約8万の軍勢に包囲された義弟の北条綱成の河越城は半年間籠城していた。北条側の兵は1万にも満たなかったが、氏康は城内の綱成との連携で夜襲をかけて勝利した。

1549年に関東で大地震が発生した。
北条氏の領民たちは土地にダメージを受けて作物も収穫できず、苦しみのあまり田畑を放棄して村から逃亡していた。
それに対して氏康が取ったのは、1550年の公事赦免令。
税制を改めて課税を単純化して軽減した上、賦役の廃止や免除などを実施した。これが功を奏して北条氏は領地支配に成功したのだ。

その後も政略結婚などで武田・今川氏との結びつきを強め、三国同盟を締結し、北条氏の関東における力は高まった。
そして北条の敵としての照準は上杉氏に絞られることになる。
武田氏の牽制などもあり、北条氏康は1561年の上杉謙信の10万の軍を退け、その後も氏康と謙信との攻防は一進一退の状況が続いていた。

今川義元が亡くなってから武田信玄は戦略方針を変え、三国同盟は破棄されてしまった。
また、房総半島にいる里見氏は手ごわく、氏康の息子・氏政は敗北している。武田、上杉、里見という多くの数の敵を一度に相手にするのは不利だと考えた北条氏康は、敵の数を絞るために上杉氏と同盟を組んでいる。
この同盟はのち氏康の死後、解消されているが。

1569年に武田氏が小田原城の近くまで攻め込んで来た。
彼らの撤退時に北条のチャンスがあったが、追撃した氏康の息子・氏照と氏邦たちが、かえって反撃を受けてしまった。

氏政は里見氏に勝てず、氏照・氏邦も武田追撃に失敗。
そのあたりを隠退した氏康は心配していたと考えられる。
また、同盟を結びながら一向に協力してくれない上杉氏に対する不信感も募った。
氏康は、やがて病気がちになり、その最期には上杉との同盟を破棄し、武田と再度の同盟締結を遺言したという。

この氏康の辞世の句は、そんな状況の中で残されたものだ。
偉大な人物だけに、どこかで息子たちの力量に限界が見えてしまったのかもしれない。
だから氏康は、息子たちに
「自惚れず、過信せず、自分の能力に見合った生き方をせよ」
と戒めた。

北条氏を背負っていた彼には、辞世の中に自分の死への思いを残す余裕はなかった。残された息子たちへ最後のアドバイスを残すための手段、それが辞世だったのかもしれない。