見出し画像

陶晴賢の辞世 戦国百人一首65

陶晴賢(すえはるかた)(1521-1555)は、大内氏の家臣のうちではトップの実力者だった。
1551年の大寧寺の変で、文化的活動に傾倒した主君・大内義隆に叛き、彼を自害へ追い込んでいる。
その後義隆の姉の子・義長を17代当主として大友氏から迎えたが、実際は晴賢が大内氏の実権を握った。

65 陶晴賢

何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に

この有様になること(死ぬこと)は、生まれたときより定められていたことだ。いまさら何を惜しみ、恨むことがあろうか。

かつて大内義隆の家臣だった毛利元就は、陶晴賢が大内氏内部で実権を握ったあとも、当初は彼に恭順して勢力をのばした。
が、やがて晴賢と対立して彼を死に追いやることになる。

陶晴賢は、毛利元就軍によって厳島神社で知られるあの聖域・宮島で最期の時を迎えたのである。
晴賢にとっての最後の戦いとは、1555年の「厳島の戦い」だ。

毛利側4000、大内(陶晴賢)側2万、という兵力では大差のある戦だった。
4000の兵では、まともに戦えば元就軍が大内軍を押さえ込むことなど不可能である。
ただ、平地ではなく、平坦な場所の少ない宮島ならば話は別だ。
毛利は、宮島で戦うことを決めた。

晴賢率いる大内軍は、毛利軍によって流されたニセの情報のためにまんまと宮島へ誘導されてしまった。
そして2万の大軍は、宮島という小島の中で身動きが取りにくいところを多方面から毛利勢に一気に叩かれたのだ。
海へ逃げようとする者も、毛利の手配によって島を包囲していた村上水軍によってことごとく討たれ、大友氏の敗戦は確定した。

この毛利による「厳島の戦い」は、「桶狭間の戦い」「河越城の戦い」に並ぶ、日本三大奇襲の一つと呼ばれている。

『戦国百人一首 46』では、すでに陶晴賢の家臣・伊香賀隆正の目線での話をご紹介させて頂いている。

退路を断たれた晴賢は、敗走途中で自害した。
彼の遺骸は、宮島の対岸にある桜尾城で首実検の後、毛利氏によって洞雲寺に葬られている。享年35。

美少年だったとされる晴賢は、もともとは主君・大内義隆の寵愛を受け、彼とは衆道(男の同性愛)の関係にもあったらしい。
濃い関係で結ばれていたはずの主を自害に追い込んだあとは、今度は、同じ主君に仕えていた「仲間」によって自害に追い込まれたわけである。

どんなに強い関係や絆があっても、それの「永遠」は保証されない。
それが戦国時代ということか。