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日本史関連の記事

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#織田信長

へぇそうなんだ日本史④【信長のネーミングセンス問題】

天下人として知られる織田信長。 戦国時代を代表する武将として最高の知名度で、人気のある人…

市の辞世 戦国百人一首78

「お市の方」と呼ばれた市(1547?-1583)は、織田信長の妹、そして浅井長政や柴田勝家の正妻…

武田信玄の辞世 戦国百人一首61

武田信玄(1521-1573)には持病があり、亡くなる前には喀血を繰り返していたという。 彼の病名…

だし(荒木村重室)の辞世 戦国百人一首56

『戦国百人一首55』で荒木村重に見捨てられた、荒木の重臣・池田和泉の辞世とその死に至るまで…

池田和泉の辞世 戦国百人一首55

この人物をあえてセンセーショナルに紹介すれば、 「鉄砲で自分を撃ち抜いて自害した日本で最…

松永久秀 最期の言葉 戦国百人一首㊺

松永久秀(1510-1577)は、日本の戦国三大梟雄(きょうゆう)として斎藤道三、宇喜多直家と並…

朝倉義景の辞世 戦国百人一首㊸

自刃したあと、朝倉義景(1533-1573)の首は京で獄門に晒された。 織田信長がその義景の頭蓋骨を使った髑髏(どくろ)の杯を作り、金ピカに塗ってそれで酒を飲んだ、というエピソードがあるがそれはウソである。   七顛八倒(しちてんばっとう) 四十年中(しじゅうのうち)   無他無自(たなくじなく) 四大本空(しだいもとよりくう) 苦しみもがいた40年の生涯であったが、結局、この世というものは自他の区別もなく空しいものなのだ 1574年正月1日、義景の髑髏は浅井久政・長

織田信孝の辞世 戦国百人一首㊳

納得できない死を前にして怒りを爆発させた辞世を残したのは、織田信孝(1558-1583)である。…

今川氏真の辞世 戦国百人一首㊲

今川氏真(1538-1615)は駿河国・今川氏の第12代当主である。 前半は大名、後半は文化人として…

今川義元の辞世 戦国百人一首㊱

今川義元(1519-1560)は、「海道一の弓取り」と呼ばれ、天下取りに近いとされた駿河国・遠江…

明智光秀の辞世 戦国百人一首㉙

明智氏は美濃の土岐氏の支流であり、さらに遡れば清和源氏につながるということだが、明智光秀…

初代本因坊 算砂の辞世 戦国百人一首㉘

わが国最初の囲碁棋士、これが算砂(さんさ)(1559-1623)である。 将棋の名手でもあった。 …

鳥居強右衛門の辞世 戦国百人一首⑤

鳥居強右衛門(1540-1575)という足軽が生涯で注目されたのは、長篠の戦いのとき1度だけだ。 …