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鳥居強右衛門の辞世 戦国百人一首⑤

鳥居強右衛門(1540-1575)という足軽が生涯で注目されたのは、長篠の戦いのとき1度だけだ。
彼はその戦いで死んだ。

鳥居強右衛門 最終決定

    我が君の 命にかわる玉の緒を
         何に厭ひけん 武士(もののふ)の道

「武士として、我が主君の命に代えてこの命を捨てることなど惜しくない」

長篠城は、もともと武田信玄の手中にあった城だった。
1573年に信玄が病没したあと、徳川家康がこれを奪い、奥平家の当主・奥平貞能と嫡男の奥平貞昌(後の信昌)に託していた。
強右衛門はその奥平家の家臣だったわけだ。

1575年、武田勝頼を総大将とした1万5千の軍が、長篠城を奪還しに攻めてきた。
当時城を守っていた21歳の奥平貞昌は約500の城兵で籠城。
しかし兵糧庫を焼失し、食糧が尽きて落城まであと数日となってしまった。

城兵の誰かが、岡崎城にいる徳川家康に援軍要請しなくてはならない。
だが、武田軍は厳重に長篠城を包囲しており、城を抜け出すのは至難の業だ。
そんな時、自ら決死のメッセンジャー役を志願したのが鳥居強右衛門である。
水泳が得意だった彼は、夜間に城の下水口から豊川の急流を泳いで脱出。
武田軍の包囲網を突破して、無事岡崎城の家康への援軍派遣の要請に成功した。

実は既に状況を察知していた家康は、既に同盟者・織田信長と共に3万8千の連合軍の手はずを整えていた。
あと数日で長篠城の応援に出発できる、というタイミングだったのだ。

喜んだ強右衛門は、家康が休息を薦めたのにもかかわらず、とんぼ帰りで帰城することにした。
往復約130kmの距離である。
脱出や援軍要請に成功する度に、長篠城へ向けて合図ののろしを上げていた強右衛門だったが、それでも朗報の詳細をいち早く自分で長篠城に伝えたかった。

ところが強右衛門は、長篠城の近くまで来て武田軍に捕縛されてしまう。
のろしが上がる度に籠城軍が上げる歓声を怪しんだ武田軍の警戒網に、強右衛門が引っ掛かったのだ。

強右衛門への取調べで、家康からの援軍の存在を知った武田勝頼は、彼に取引を持ちかけた。
「援軍は来ないからあきらめて城を明け渡すように言え。そうすれば助命し、武田家臣として厚遇してやろう」
強右衛門が嘘の情報を城に伝えれば、籠城軍は士気を失い自ら落城すると考えたのだった。

強右衛門は勝頼の要請を承諾したフリをした。
そして、長篠城の側に引き立てられた時、こう絶叫した。
「援軍はあと数日でやって来る! それまでなんとしても持ちこたえよ!」

それを聞いた勝頼は怒り狂い、ただちに強右衛門を磔にして、長篠城の兵たちに見せつけるように処刑したのである。

長篠城の城兵たちは、強右衛門のおかげで援軍がくることを確信し、また彼の死によって発憤した。
そして長篠城は援軍到着まで落城せず持ちこたえたのである。
その後、到着した家康・信長連合軍は、長篠の戦いで武田勝頼の軍に完勝する。

強右衛門の忠義心は、敵方の心まで動かした。
彼が処刑されるまでのわずかな間に、監視役だった武田家臣の一人が強右衛門と親しくなった。
彼は磔になった強右衛門の様子を描き、彼への敬意を表して自分の旗指物(鎧の背にさして目印にした小旗)に使用したのである。
その絵を描き直したものが現存している。

また、愛知県新城市の甘和泉寺にある強右衛門の墓は、彼の忠義心に報いようとした織田信長の建立による。

強右衛門の辞世は、彼が長篠城を脱出するときに遺したものと記録されている。
だがその記録は彼の死後50年を経過して作られたので、本人の作である保証はない。
それでもこの歌は、あのときの鳥居強右衛門の心意気をそのまま表わしているように思える。