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日本史関連の記事

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#和歌

高橋紹運の辞世 戦国百人一首86

豊後国を中心に勢力を伸ばした戦国大名大友宗麟は、家臣に「風神・雷神」を持っていた。 「雷…

諏訪頼重の辞世 戦国百人一首85

信濃の戦国大名で、諏訪氏第19代当主だった諏訪頼重(すわよりしげ/1516-1542)。武田信玄に切…

安国寺恵瓊の辞世 戦国百人一首82

安国寺恵瓊(あんこくじえけい)(1539–1600)は臨済宗の僧侶である。毛利家の一外交僧から豊…

太田道灌の辞世 戦国百人一首81

武将であり学者であり、非常に優秀だったと言われるのがこの太田道灌(おおたどうかん)(1432…

中村文荷斎の辞世 戦国百人一首80

この人物を知る人はなかなかの歴史通かもしれない。 柴田勝家が切腹した時、勝家の介錯を行っ…

市の辞世 戦国百人一首78

「お市の方」と呼ばれた市(1547?-1583)は、織田信長の妹、そして浅井長政や柴田勝家の正妻…

波多野秀尚の辞世 戦国百人一首77

名前から想像できる通り、波多野秀尚(はたのひでなお)(生年未詳 – 1579)は、『戦国百人一首77』(一つ前の記事)で紹介した、丹波国八上城主の波多野秀治の弟である。 この弟も兄と共に織田信長によって磔となって処刑された武将だ。  おほけなき空の恵みも尽きしかど いかで忘れん仇し人をば   (空からの恵みが尽きるとしても仇敵のことは忘れんぞ!信長あああ) 秀尚が殺された経緯は、兄の秀治と同じであるから話が重複する部分もあるが、この2人の無念を考え、両人とも辞世をしっか

波多野秀治の辞世 戦国百人一首76

波多野秀治(はたのひではる)(1529?-1579)は丹波国(現在の兵庫県あたり)の大名で八上城…

伊賀崎治堅妻の辞世 戦国百人一首74

名前もわからない女性の辞世である。 そもそも武将・伊賀崎治堅(いがさきはるかた)の名を知…

大内義長の辞世 戦国百人一首73

戦国百人一首72で紹介した大内晴持に続き、同じ大内義隆の猶子(養子)となった大内義長(1532…

大内晴持の辞世 戦国百人一首72

20歳で海の藻屑となってしまったのが、大内晴持(おおうちはるもち)(1524-1543)である。 死…

真田幸村の辞世 戦国百人一首70

真田幸村(1567?-1615)の名前は通称とされており、諱(いみな/実名)は信繁(のぶしげ)であ…

本多忠勝の辞世 戦国百人一首69

前回、68番目に紹介した徳川家康の辞世で、「三河武士」というものを紹介した。その典型がこの…

徳川家康の辞世 戦国百人一首68

徳川家康(1543-1616)の死因が「鯛のてんぷらの食べ過ぎ」もしくは「食中毒」という話もあったが、どうやらそれは誤解で、彼の体調不良の経過具合から胃がんだったのではないかと診断されている。 先に行くあとに残るも同じこと 連れて行けぬをわかれぞと思う 私は先に死出の旅に出るが、あとに残ったお前たちもいずれは同じように死ぬ身だ。だからといって、お前たちを死の道連れにはしない。お別れだ。 病に苦しみながらも、彼の頭脳は明晰だったのだろう。 家臣たちによる無駄な殉死を諫め、