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本多忠勝の辞世 戦国百人一首69

前回、68番目に紹介した徳川家康の辞世で、「三河武士」というものを紹介した。その典型がこの人物、本多忠勝(1548-1610)である。
酒井忠次・榊原康政・井伊直政と共に家康を支え、江戸幕府の樹立に貢献した「徳川四天王の一人」だ。
本多忠勝は自分が亡くなるまで家康に仕えた。

69 本多忠勝

死にともな嗚呼死にともな死にともな深き御恩の君を思えば

死にたくない、ああ死にたくない、死にたくない。主君・家康様から受けた深い恩を思うと…

読んでそのままの辞世である。
繰り返される「死にともな」という言葉。

忠勝が亡くなったのが1610年であるから、彼は豊臣方と徳川方が戦った1614年、1615年の大坂の陣を知らない。
そして、1616年の主である家康の死も知らない。
主を置いて死ぬに死ねないと思う中で、結局は寿命が尽きてしまう自分を悔しがったのである。

本多忠勝は強かった。

1570年 姉川の戦い 朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎打ち
1572年 二俣城の戦いの前哨戦で殿(しんがり)として家康の本体の撤退戦を成功させる
同年  三方ヶ原の戦いで武田軍に夜襲をかけて武功を挙げる
1573年 長篠城攻めで城を獲得の手柄
1575年 長篠の戦いで活躍
1580年 高天神城奪還戦で活躍
1584年 小牧長久手の戦いで留守役だったが徳川軍の苦戦を知り500騎で駆けつけ豊臣軍の戦機を消す

これら数々の戦いで忠勝は必ず徳川家に貢献した。
忠勝の勇名は知れ渡り、豊臣秀吉、織田信雄など敵味方を問わずにその剛胆さ、強さを称賛されたのである。

彼は戦いに強かっただけではない。
頭脳明晰で、冷静な一面も持っていた。
本能寺の変で織田信長が亡くなったときに、堺にいた徳川家康が信長の後を追って京で自刃しようとしたのを止め、「伊賀越え」するよう説得したのも忠勝だ。

本多忠勝こそ「家康には過ぎたもの」と言われた人物なのである。
徳川家康はもちろんすばらしく優秀な武将であったが、家臣にも恵まれたということだ。

忠勝は怖い物知らずの武将で、戦況を見極め攻め時を知る優秀な指揮官でもあったが、自分の実力を自慢することはなかったという。
彼が武士として最も重要だと考えていたのは「忠義の心」だったからだ。

忠勝が辞世とは別に、臨終の際に残した遺書の一節にこのような言葉が残されている。

侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君を枕と並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という。

ここに「武士にとって最も大切なことは忠節を守ることだ」と忠勝自身が明言している。

「死にともな。深き御恩の君を思えば」となりふり構わず言った理由の根底には彼のそういった信条があった。