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日本史関連の記事

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2020年9月の記事一覧

本多忠勝の辞世 戦国百人一首69

前回、68番目に紹介した徳川家康の辞世で、「三河武士」というものを紹介した。その典型がこの…

徳川家康の辞世 戦国百人一首68

徳川家康(1543-1616)の死因が「鯛のてんぷらの食べ過ぎ」もしくは「食中毒」という話もあっ…

桂林院(武田勝頼室)の辞世 戦国百人一首67

桂林院(1564-1582)は、武田勝頼の継室である。 相模の戦国大名だった北条氏康の6女と言われ…

源頼朝入りの仏像。【ぶつぶつ仏像②】

ここでは、仏像について何も知らない人にも楽しめそうな、単純で面白いことだけぶつぶつ言いま…

武田勝頼の辞世 戦国百人一首66

病没した武田信玄の跡を継いだのは、武田勝頼(1546-1582)である。 もともと彼は「信玄の側室…

仏の笑顔とは。【ぶつぶつ仏像①】

仏像ってさ、 奥が深いんだけど、素人が見て単純に面白いことも沢山ある。 見仏を趣味として…

陶晴賢の辞世 戦国百人一首65

陶晴賢(すえはるかた)(1521-1555)は、大内氏の家臣のうちではトップの実力者だった。 1551年の大寧寺の変で、文化的活動に傾倒した主君・大内義隆に叛き、彼を自害へ追い込んでいる。 その後義隆の姉の子・義長を17代当主として大友氏から迎えたが、実際は晴賢が大内氏の実権を握った。 何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に この有様になること(死ぬこと)は、生まれたときより定められていたことだ。いまさら何を惜しみ、恨むことがあろうか。 かつて大内義

清水宗治の辞世 戦国百人一首64

織田信長の命による羽柴秀吉の中国地方攻略で散った武将の一人、備中高松城主・清水宗治(1537…

吉川経家の辞世 戦国百人一首63

辞世と共に、武将が子供たちに向けた遺書を紹介したい。 吉川経家(きっかわつねいえ)(1547-…

木付統直の辞世 戦国百人一首62

木付統直(きつきむねなお)(?~1593)は木付城(現在は杵築城)主・木付鎮直(しげなお)の…