木付統直の辞世 戦国百人一首62
木付統直(きつきむねなお)(?~1593)は木付城(現在は杵築城)主・木付鎮直(しげなお)の息子である。
木付氏は豊後国を本拠地とする大友氏に仕えていた。
1586年の島津氏の豊後侵攻の際には、木付城にて親子で島津勢を退ける活躍もしている。
古へを慕うも門司(もじ)の夢の月 いざ入りてまし阿弥陀寺の海
昔を慕うのも夢に見る門司の月のようなもの。さあ阿弥陀寺の海に入ってしまおう
1593年に統直は入水して自らの命を絶った。
彼の辞世には、仏への信仰を頼りに死んで行こうとする彼の姿がそのまま映し出されている。
どうして彼は自害しなければならなかったか。
そのきっかけは、豊臣秀吉が行った文禄の役(1592~1593年の朝鮮出兵)だった。
木付統直は、主君である大友義統の6000の兵に加わり、嫡男の直清を含めた一族と兵を合わせて約150名を率いて従った。
ところが、鳳山の戦いで統直の息子・直清が討死。
さらに彼の主君・大友義統は、誤報を信じて鳳山城を放棄し、撤退してしまった。それが窮地に陥っていた味方の小西行長を見捨てた形になり、豊臣秀吉の逆鱗に触れたのだった。
大友家は「敵前逃亡」したという恥ずかしい罪で、所領没収・改易となり、大友義統は幽閉されてしまった。
息子の討死に加えて主家まで無くなった木付統直は、朝鮮からの帰国途中、門司の浦(関門海峡)にて入水自害した。
大友家の改易に未来を見失ったか、抗議の意味だったのだろう。
話はそれだけでは終わらない。
さらにこの悲報を木付城で受けた統直の父・鎮直は、子・孫・主家を同時に失ったことを知る。
絶望した彼もまた妻と共に自害。
こうして木付氏は消えていったのである。
実は大友義統は、1598年の秀吉の死により翌年に豊臣秀頼により罪を許され、幽閉状態から脱して再び豊臣家に仕えている。
木付統直が、こうなることを前もって知ることができていたならば、死ぬことはなかっただろう。
そうすれば、統直の父・鎮直も命を絶つことはなかった。
木付家にとっては、皮肉で悲しい結末である。