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暇と向き合う「暇と退屈の倫理学」part7(完結)

 今回の投稿では、書籍『暇と退屈の倫理学』の第6,7章および付録について触れる。
 この書籍を読む際の私のテーマは「今、暇と退屈を解きほぐしたとき、退屈の方の輪郭はどうなっているか?」という問いだ。
 引き続き考えたことを記録として書き起こす。

 part .1から読みたい方はこちらへ。

https://note.com/akashi_yama/n/n2c11c2a5be81

□人間のもつ自由

 さて、第5章では退屈を3つの形式に分類して考えていくことにより、退屈への理解を深めることができた。
 同時に、「君には可能性があって自由なんだから、今こそ決断しよう!」という結論は到底受け入れがたいものであった。
 こんなことを自分で書くのも悲しいのだが、私は自分自身に可能性など感じていないのだ。急に「君にも可能性がある」といわれてもピンとこない。

 続く第6章は、「退屈しているときって自分はどんな状態なんだ? 気晴らしってどういうことを指すんだ?」という、メタ的な視点を経験できる内容である。

 本書では、動物と人間を比較することによって、人間が退屈に至るまでの過程を次の言葉で説明した。

人間は環世界を相当な自由度をもって移動できるから退屈する。

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 新潮文庫 p.334

 ここで、新たな用語がでてきた。「環世界」である。
  環世界とは、個の生物が主体として経験している具体的な世界のことである。それぞれの個体がもつ環世界では、ダニはダニなりの世界を生きており、そこでは人間とは異なる限定的な外部刺激を受け取り、異なる時間を生きている。

 また、「環世界」の特徴として面白いのは、あらゆる生物には環世界の間を移動数能力があるということだ。本書ではその事例として、盲導犬の育成をあげている。あれは犬の環世界を人間のそれに近づくように移動させているのである。
 
 では、人間という生き物の特徴は何かと考えていくと、次の考えに至る。

人間がその他の動物に比べて極めて高い環世界移動能力をもっているということである。人間は動物に比べて、比較的容易に環世界を移動する。

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 新潮文庫 pp.33-331

 そして、同時に人間のもつ環世界は不安定なものであるといえる。
 一つの環世界に浸っていることができないのだ。
 
 異なる環世界に安定を期待し、現状の環世界にとどまっていられなくなるから人間は退屈するのだと述べられている。

 そしてこの退屈というのは、ハイデッガーのいう第二形式の退屈であり、高い移動能力故に不安定な環世界しかもちえない人間が、退屈と切り離せない姿そのものだ。

□安定を愛しているのに?

 でもおかしいではないか?
 私は、安定と不安定だったら、圧倒的に安定の方を愛している。
 これは自覚がある。世界中の占いの類に確認してもいい。

 退屈するからくりは分かったが、まるで自分から変化や刺激を求めて、退屈するというのが腑に落ちない。

 そこで、本書は7章の暇と退屈の倫理学へとすすんでいく。
 まず、人間の目指している方向について、ジル・ドゥルーズによる「考える」ことに対する考察を引用して次のように述べる。

人間はものを考えないですむ生活を目指して生きている

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 新潮文庫 pp376

 ジル・ドゥルーズは、人間がものを考えるのは何かショックを受けたときであり、そのような出来事を「不法侵入」と呼ぶ。
 環世界に何か新しい要素が「不法侵入」してきて、多かれ少なかれ習慣の変更を迫られるとき、人はものを考えざるを得ない。

 さらに、フロイトの言葉を引用しながら次のように考えを進める。

生物にとっての快とは興奮量の減少であり、深いとは興奮量の増大なのである。

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 新潮文庫 pp381

 興奮量の減少という快を得るためならば、人間は一時的な興奮量の増大すらも望むというのだ。
 こうして、人間は退屈と気晴らしを繰り返し、環世界を移動していく。

□暫定結論

 本書の結論は、読者によってとらえ方が異なるだろうが、私個人が受け取った表現を用いる。

 暫定結論は 「ありもしない完璧な個性から離れて、楽しむための訓練を日常的に行うことで、夢中になれるものとの遭遇に対しスタンバイする」である。

 環世界を移動していくなかで、楽しいと思えることをより深く享受していく。最終的に皆が同じものに夢中になるとは限らないが、自分はいったい何に夢中になるのか待ち構えながら、かかさずに準備するといものだ。

□おわりに「痛む記憶と凸凹均し」

 この書籍を読む際の私のテーマは「今、暇と退屈を解きほぐしたとき、退屈の方の輪郭はどうなっているか?」という問いだ。

 これまでの話で言うと、現在の環世界に長くとどまりすぎたことが原因で退屈しているのだと思う。しかしながら、大人になってからも新しい刺激は止めどなく私の価値観絵に影響を及ぼしてきた。それなのに、ひとつの環世界とどまっている感覚が強くなっているのはなぜなのだろうか?

 もう一歩深く考えるヒントは付録にあった。本書の付録「傷と運命」だ。
 この付録では「記憶が痛む」というものを次のように表現している。

こうなって欲しい、こうなるだろうという予測を大きく侵害する想定外の出来事の知覚や記憶のこと

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 新潮文庫 p.489

 平たく言うとトラウマのようなものであろう。 
 そしてこのような痛む記憶と退屈の関係を次のように考察している。

外からの刺激が消えると、痛む記憶が内側から刺激として人を悩ませるから、これに対応して外からの刺激を求めるのが退屈の正体ではないか。

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 新潮文庫 p.494

 さて、私の退屈の輪郭が見えてきた。
 内側には転職前の職場や離婚に関する「痛む記憶」が不快な状態のまま接しており、外側にはそれと釣り合うような気晴らしの刺激を配置した形をしている。
 もしくは外側へ上手に刺激を配置できず、内側からの刺激から逃れようとして、転がるようにして少しずつ外側の刺激の接触面を変える試みをしている状態だ。

 この外側の刺激をいい塩梅に配置するために行っているのが、noteの記事の作成だと思った。
 気晴らしというのは 凸凹した表面の退屈という器を綺麗な真球に近づけるイメージとなった。
 私にとってのクリエイターっぽい行動の原動力とは、「自分の中の刺激によって退屈の器に変な突起物ができたところを外側に接触させることによって、削り取るか補填するかの方法で凸凹を平らにしたい」である。

 オンラインで文章を公開しているのは、外部との接触面をつくろうとしたとき、オフラインでは表現の場所がなかったからだろう。

 私はこの凸凹な退屈の器を綺麗な球に仕上げたくてたまらないのである。
 それは球になったら、日常の「不法侵入」に対して、習慣の一部として思考を生じさせることなく対応できると思っているからだ。
 そしてこの球イメージで例えるならば、「痛む記憶」で生じた突起部分を整形するということが、「痛む記憶」を習慣化するということに対応しているのだろう。

 さて、問いに対する考えを出してみたが、次の問いも生まれた。
 「痛む記憶」の対応を習慣化したいのにも関わらず、習慣を作り出すためには退屈と気晴らしを少しずつ繰り返すというプロセスを踏むことになる。

 習慣化できた暁には、「興奮量の減少」というフロイトのいう快が待っている。

 それならば、新しいことの習慣化というのは、かなり快が得られるとおもうのだが、私が運動や食事、資格勉強などを習慣化するのが難しいのはなぜなのか。

 今回は「なぜ習慣化する試みというのは続けるのが難しいのだろうか?」という問いを最後に見つけることができた。

 書店に行って、習慣化の本を探してみることとする。

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