シェルランナーズ
神智学研究所の実験施設で目覚めたエニルは、調整されたばかりのESPと限られた装備だけで、事故により放棄された地下施設からの脱出を指示される。
相棒は同じく調整されたばかりのクリム。一つの身体に三人分の魂の詰め込まれた彼女とのバディで、エニルは危険な試験体の解き放たれた施設の最下層を目指す。
最下層で改めて告げられる強行探索班としての初任務。それは主の反応の消えた旧い神の寝所に向かい、情報を持ちかえること。
実験施設 → 最下層
(おはようございます! そろそろ起きてくださーい!)
やたら能天気で無遠慮なモーニングコールが頭に響く。
うるさい。起きてるよ。
反応するのが癪だったから無視してただけだ。
目を開けると、真っ白な天井とアクリルパネルの照明が飛び込んできた。光量はさほど強くない。
ゆっくり目をならし、身体を起こして状況を確認する。
5m四方ほどの部屋。真ん中にぽつりと置かれたベッドの上に寝かされていたらしい。
(意識はハッキリしてる? 名前は覚えてるかな?)
エニル・エスティマ。最後の記憶は薄紅色の液体で満たされたカプセル越しの光景。この人――院内(いんない)さん、だったか――は「これが最終調整だよ!」と張り詰めたテンションで親指を突き出していたはず。じゃあ、無事全ての工程が終わったのか。
左右の手の五指を開閉し、肘を屈伸してみる。感覚は正常、妙な張りや強張りも無い。起き抜けだということを除けば、意識も明晰だ。
(おめでとう! ありがとう! 君の素質にはこれっぽっちの疑いも持たなかったけど、急に預言が進行したので! 略してK・Y・Sってヤツ?)
背中で紐で止めるだけの、ライトグリーンの簡易な手術着を着せられている。吐いても垂れ流しても簡単に処理できるので、このところ馴染みの格好だ。なんかすーすーする。……パンツはいてない!
調整が終わったのなら、着替えくらい用意されているかと辺りを見回してみるも、それらしき物は見当たらない。簡易ベッドの右手側に置かれたワゴンには、拳銃と三本のアンプルが無造作に置かれている。赤が2本、緑が1本。
銃はグロック17とかいったか。17発収められる弾層に3発しか入っていない。簡単な訓練は受けたから、扱うことはできるけど。院内さんが「君が銃を使う場面は、本来あっちゃいけないんだけどね。だからほぼ自決用みたいな!」と、ウインクと共に口にしていた記憶がある。その時は冗談かと思って愛想笑いを返したけど、なんだかじわじわと不吉な予感がしてきた!
(不確定要素もあったけど、そのおかげで二正面作戦を回避できたようなものだし? 人間万事塞翁が馬ってカンジ? あ、サイ・オーって書くと、なんかジェダイの騎士っぽくない?)
赤いアンプルは実験や訓練で馴染みの物だけれど、緑の方は初めて見た。照明の加減か、ぼんやりと蛍光しているようにも見える。
「……院内さーん?」
下っ端の看護師なのか、責任ある立場なのかよく解らない人だが、わたしの担当であることには違いない。わたしの声に込もったありったけの不信や疑念に反応して、わざとらしい咳払いと共に駄弁が中断される。
(こほん、ごめんなさい。状況が変わりました。起動実験の後、本試験の予定でしたが、今から初任務です。頑張ってね!)
うわぁ。身も蓋も無い。
アンプルはともかく、拳銃がここに置いてあるってことは。装備はこれだけで、今この時この場から状況開始って事なのか。
(とりあえず、生きて帰ってね!?)
元気一杯の不吉なエールと共に、院内さんの声が途絶える。
もう一度室内を見回し、どこにもスピーカーの類がないことを確認する。
ESPに関しては、確かに問題ないレヴェルで調整済みらしい。
§
昔から運だけは良かった。
家族を殺されて一人生き残れたのも、人身売買組織に売り払われる前に救出されたのも、全て直感に従って行動した結果だった。
わたしを救い出してくれたのは警察でも国軍でもなく、傭兵のチームだった。本来の目的は人身売買組織の取引先である教団の襲撃で、商品である子供たちの確保は、事のついででしかなかったようだが。ごつい顔に似合わず面倒見の良いリーダーからは、救われた子供たち皆に、その場で2つの選択肢が提示された。
このままストリートチルドレンとして暮らすか。それとも彼が紹介する砂糖黍の農場で働くか。
一つ目の道は論外だった。ひと時の自由を得られても、身寄りのないわたしは、いずれ自分で自分を売らなければならなくなるのは目に見えている。売り払われる予定だった教団では、儀式として化物――今のわたしには、それが例え話でなく、実在の物を指すと理解できるが――に犯されながら食われたり、溶かされながら謳わされたりするはずだったそうだが、その相手が生粋の人間になるだけのこと。
囚われの間、両親を殺した男から、笑い話のような調子で話を聞かされた。取引先の一つに、長寿延命のため月に一度、生きたままの少女を、ナイフとフォークで切り分けて食べる老富豪がいると。この男が、濁った目で気味の悪い笑声を漏らしながら、母さんの遺体の上で腰を振る姿を見ているわたしには、それを子供を怖がらせるための作り話だと、切って捨てる理由がなかった。
二つ目の道は一見まともそうに思えた。一日16時間労働だが、日に三度の食事は保障されるし、雀の涙ほどとはいえ給金も出る。農場主の目的は労働力の確保だから、狂人に儀式の生贄にされるような、積極的な命の危険はないし、いざとなれば逃げ出すことだってできただろう。実際わたし以外のほとんどの者が、その農場で働くことを望んだ。
その時覚えた予感めいたもの――それは、選ぶべき道ではないという――が、結果わたしの命を救った。後で聞いた話だが、2ヵ月後その農場は無くなってしまったらしい。廃業したというのではない。住人ごと、この世から消え去ったというのだ。農場のあった場所には代わりに、どの文明とも合致しない古代遺跡が、当たり前のように聳え立っていたそうだ。各専門機関の調査の結果、その遺跡は一万年以上前その場所に造られ、ずっとその場所に存在していたという有り得ない結論に辿り着き、以来禁足地として厳重に閉鎖されているのだとか。
わたしが選んだのはそのどちらでもなく、三つ目の道だった。表向き、わたしたち家族を襲ったのは犯罪組織と発表されたが、なぜ宗教団体の存在は伏せられたのか。襲撃対象としてリストまで用意されていたのに、なぜ無差別的な犯行と結論付けられたのか。知らねばならない。父さんと母さんが殺された理由と、わたしだけが生き残った理由を。
後から思えば、その熱に犯されたような衝動的な行動も、どこか直感に基づいての物だったのだろう。解放され、監禁されていた倉庫から逃げ出す子供たちの列を離れ、わたしはひとり教団施設に踏み込む傭兵達の後を追った。プロである彼らに気付かれずに行動できたのは奇跡だったのだろう。イエス様に祈りを捧げる教会の地下の納骨堂で。わたしは彼らが、この世の物ではない存在と戦う姿を目にすることとなる。
激しい銃撃戦の後、邪教の輩と怪物の全てが動かなくなり、死者と負傷者を抱えた傭兵たちが撤収を始めた頃。一部始終を盗み見て、物陰で震えていたわたしは、赤や緑の返り血で服を染めたリーダーと目が合った。悲しそうな瞳で銃口を向ける彼に、失禁し腰を抜かして動けなくなっていたわたしは、それでも声を張り上げて懇願した。
「わたしも連れて行って下さい! このまま、なにも知らないまま終わりたくない!」
短くは無い逡巡の後、重い溜め息と共に銃を下ろしたリーダーに連れられ、わたしは彼のクライアントである神智学研究所に、検体として迎えられることとなった。
これも後で知った話だが、リーダーはわたしに銃口を向けたとき、どんな台詞で命乞いをしても、口封じとして引き金を引く決意をしていたらしい。金で命を遣り取りする男が、生死よりも知る事を優先する、年端も行かぬ小娘の姿に、何を感じ何を思い意志を翻したのだろう。
チトラルで命を落とした彼に、今となってはその理由を問うことはできないが、結局わたしは運が良かったという話だ。
銃を手に廊下を進む。
室内と違い、非常灯の薄明かりだけが辺りを照らしている。地震でもあったのか、壁の歪みや亀裂の入った床、パネルの剥がれ落ちた天井が目に付く。なにか大きな災害に見舞われた後のようだが、現状説明くらいはあっても良いんじゃないの?
院内さんの話では、調整が済めばすぐにでも探索班に配属されるという話だったから、状況把握しながらの柔軟な対応もテストのうちってことなのか。
目覚めた部屋にもこの廊下にも見覚えが無い。眠っている間に、調整を受けていた施設とは別の場所に運ばれていたらしい。完成すれば優秀な兵士にして兵器だが、一歩間違えば制御の利かない災厄を引き起こす。わたし達の様な存在にとってはよくある扱いだ。事が起これば施設ごと廃棄されるケースも珍しくはない。
っていうか、これは既に廃棄されている状況だったりしない? わずかな不安を抱きつつ一区画ほど進むと、赤いドアが目に付いた。
わたしが目覚めた部屋と同じで、特殊なキーが必用なドア。おそらく、中には試験体が収容されているか、されていたはず。わたしの部屋と同じ状況に置かれているのなら、キーは自動的に解除されているはず。まだ室内に残っているのか、それとも先に行ってしまったのか。閉じたままのドアを前に、わたしは室内に軽く意識を這わせてみた。
『あーちくしょう! 雑なミッション気楽に投げやがってあのアマぁ!』
『他にも試験体がいると聞いた。合流できれば生存確率が6割程度にはなるはず……』
『退屈だなぁ。ドアも開かないし。誰か来ないかなぁ』
3人分の、おそらく皆女性の意思。運の悪いことに、ドアを開けられないでいるらしい。仲が悪いのか、相談して問題解決しようという流れにならない。他の同室者をあてにするでもなく、各々勝手に呟いてるイメージがする。
んんん? なにやらトラブルの予感。だけどわたしにとっても、この先同行者が多いほうが心強い。どうしよう……声を掛けるべきか?
「すみませーん。鍵が掛かってるみたいですぅ」
軽くノックをしてみると、のんびりした声の主が反応した。まるで緊迫感がない。同室に3人いる心強さから、わたしほど危機感を抱いていないのだろうか。
『誰だ? 職員じゃないからドアを開けられないのか。管理室に行けばキーがあるはずだが……』
理知的な女性の思考が独り言のように漏れる。なぜか発声しない。
「分かった。まってて、鍵を探してくる」
わたしはその指示に従うことにした。状況の把握すらままならないが、与えられたミッションがこの施設からの脱出であるのなら、生存者の保護は当然試みるべき事柄のはずだ。せめて見知った、今まで調整を受けていた施設であったなら、手持ちの情報を基に、行動のプランも立てやすかったのに。
愚痴っていても始まらない。管理室でマスターキーを回収するとともに、この施設の見取り図を探すとしよう。
警戒しつつ進むわたしは、最初の十字路の前で足を止めた。何者かの気配がする。角から様子を伺うと、廊下の先にうずくまる人影が見えた。
大柄な男だろうか。非常灯の薄明かりだけでは確認しづらいが、どこか歪なフォルムをしている。何かを貪り食っているらしく、微かなシズル音が響く。だめだ、嫌な予感しかしない。
赤いアンプルを使いESPをブーストする。気付かれないよう軽く意識を這わせてみると、やはり食事中だったらしい。だが、満たされない飢餓感と、今口にしている物への不満が伝わる。本来彼が口にする物ではないようだが、なにを食べているのか、なにを食べたいのかまでは認識できなかった。
わたしの知らない単語だったし、何より知らない言語で思考していたからだ。思考パターンも人間とは異なるようだが、試験体か何かだろうか。
彼――いや、あれを排除してから進むべきか。弾数はわずか3発。アンプルを使った今なら、精神攻撃を仕掛ける事も可能だろうが、それも回数は限られている。人間ではないものを、上手く昏倒させられるかどうか。
わたしの目的は戦闘じゃあないし、装備を温存するに如くはない。食事に没頭する影をやり過ごし、先を急ぐことにした。
§
程なく管理室らしき部屋に辿り着いた。ガラス越しに、明かりの落ちた室内を、点けっぱなしのモニタをぼんやり照らしているのが見える。ドアの隙間から中を伺うと、すぐそこに警備服の男が倒れているのが見えた。
確認するまでもなくすでに事切れている。何があったのか。全ての弾を撃ち尽くした銃を手に、体液の全てを失い、ミイラのような姿を晒していた。
わたしは姿勢を低くし、明かりを点けぬまま室内に歩を進め、手早く死体を確認する。制服に数箇所の鉤裂き。右の首筋に傷跡。死体の周囲に血痕はない。
「吸い尽くされたって感じかな……」
自分の分析ながらぞっとしない。この施設の支給品なのか、警備員の銃はわたしと同じ物だった。制服を探りポケットから予備の弾倉を失敬する。どのみち彼にはもう用のない品だ。そのままカードキーと携帯端末も手に入れた。
さっそく携帯端末でフロアの見取り図を呼び出し、現在位置を確認する。フロア自体はそう広くはない。だけど、出口を確認するため呼び出した施設の全体図を目にし、思わずうんざりした。
今いるのは地下4階。ただし、上階までは800mほど下方に位置し、昇る手段はエレベーターが一基のみ。何かあっても簡単に隔離できる造りになっている。その何かが起こった今、当然のようにエレベーターは封鎖されているだろう。
まあいい、どこへ向かえばいいか分かっただけでも幸運じゃないか。使える装備を探しがてら、まだ生きているモニタに近付こうとしたとき、室内のどこかから微かな物音が聞こえた。
笑い声……か?
わたしは右手で銃を構えたまま壁際へ後ずさりし、目を閉じたまま照明の操作パネルに手を伸ばす。
点灯とともに目を開け、素早く室内に視線と銃口を走らせるが、怪しい影はどこにもない。
どこだ? 微かなクスクス笑いはまだ続いている。気のせいなんかじゃない。
残っていた赤いアンプルの効果が、姿なきものの害意を報せる。右手側からだ!
読み取った意思から標的を描き出すと、わたしは躊躇うことなくそれに全弾撃ち込んだ。
見えない何かが首筋をかすめるのはほぼ同時だった。
手ごたえは感じた。首筋に手をやると、微かに血が滲んでいた。
意識を凝らすと、床でのたうつクラゲのようなものが、微かに認識できた。なにこれ気持ち悪い!
不可視の生物は、わたしの方に未練がましく鍵爪を持つ触腕を伸ばし痙攣させていたが、やがて動きを止めた。同時に赤いアンプルの効果も切れたらしく、その姿を視認することができなくなった。
研究所で作りあげた存在なのか、それともどこかで捕えたものなのか。どちらにせよ、生物兵器としては厄介な相手だ。同じような試験体がまだ逃げ出しているのかも――いや、逃げ出しているに違いない。
弾を使い切ったのはまずかっただろうか。いや、不可視で急所も分からない存在を、無力化できたことのほうを喜ぶべきだ。それより、銃声に引き寄せられる存在がいないとも限らない。わたしは急ぎ管理端末を操作し、赤いドアのロックを解除した。
念のため、食事をしていた奴と鉢合わせしないよう来た時と別の廊下を進み、わたしはまだ見ぬ生存者達の元へ急いだ。
それなりに急いだつもりだったが、赤いドアは既に開かれていた。部屋はもぬけの殻。
わたしの寝かされていた部屋と同じつくりで、空の寝台が一つ照明に照らされている。ひょっとしたら先程の銃声を聞きつけ、援助に向かってくれたのかもしれない。入れ違いになってしまったのだろうか? 近くにはまだ人型の試験体がいるはずだ。あれと鉢合わせになっていなければ良いが。
再び管理室への通路を走るわたしの脳に、一つの違和感が浮かんだ。置かれていた寝台は一つ。わたしと違い、どうして3人も押し込められていたんだろう?
急いだ甲斐あってか、前方に廊下をふわふわと歩く人影を発見した。エスニックな民族衣装を身にまとった、赤い肌の少女。……ちょっと待った! 手術着どころか、わたしとぜんぜん布の量がちがうじゃない! なにこの格差社会!?
十字路に差し掛かった辺りで少女はわたしに気付き、振り向いきながらふんわりと微笑みかけた。
「危ない!」
わたしはスピードを上げ、走る勢いのまま彼女を抱きかかえ跳ぶ。直前まで少女の頭部があった場所に、黒い剛毛に覆われた2本の腕が振るわれた。
全力でタックルされる形になり、少女は脇腹を押さえ呻きながら廊下を転がる。構うことなく、わたしは腕の持ち主目がけ、ろくに狙いも付けずに横撃ちで2発。
少女を捕らえ損ねた太い腕が庇った頭部は、縦に裂けた口と左右に眼球を持つ異形のものだった。その腕も明らかに人のものとは違い、肘の所から分かれた二つの前腕部を供えている。
どうやらわたしがやり過ごしたあと、食事を終え移動していたらしい。4mを越える巨大な試験体は、血に塗れた牙を剥き出しにし、不機嫌そうに縦に割れた口元を歪めて見せた。
だめだ、まるで効いてるって感じじゃない!
腕に当たった2発の弾はダメージを与えるどころか、彼の怒りを誘っただけのようだ。
「うぐぅ……な、なにが……痛いですぅ」
「走るよ!」
わたしは呻き転がり続ける少女の手を取ると、無理やり引き起こし駆け出した。
『なにやってんだァ! さっさとオレに代われ!』
「あなたねえ! 助けて貰っといてその言い草は……」
無作法な物言いにとがめる視線を向けると、のんきそうな垂れ目が物問い顔を返してきた。……うん?
響く足音で追ってくる巨人との距離が詰まっているのを知り、慌てて前に向き直り逃走に専念する。
『君には私の声が聞こえているのか? 身体の主導権をアニタに。指示は私が伝える!』
発声されない理知的な思考。漠然とだが解ってきた。この子はそういう存在か。
「アニタ! 任せた!」
わたしが粗暴な物言いの思考に意識を向け呼び掛けると、繋いだ手を乱暴に振り払われた。
「待ちくたびれたぜ、ようやくオレの出番か! 得物は?」
手の届きそうな距離に迫る巨大な異形に臆する風もなく、赤い肌の少女は懐から探り当てた銃を抜く。
「弾は……しけてんな、お前のも貸せ!」
弾倉を引き抜き舌打ちをする。まなじりが吊り上がり、表情が一変している。獰猛に歯を剥き出しにする少女に気おされ、わたしは銃を差し出した。
『ガグだな。少々大きいだけで造りは人とさほど変わらない。急所も然り』
「充分だ!」
わたしの意識を介して2人の意識が思考を交わす。ESP能力をフリーのwi-fi代わりにされているきぶん。……うん? のんびりしたのがもう一人いなかったっけ?
少女――アニタは振り下ろされるガグの異形の右手をかわしつつ、触れるほどの近さからその肘に弾を撃ち込んだ。
砕かれた関節の痛みに怯むガグの股の間を滑り抜け、背後に回りこみながら左膝に2発。
「トロすぎんだよ!」
膝から崩れ落ちる巨人は、体勢を崩しながらも左腕でアニタをなぎ払おうとする。獰猛な笑みを浮かべたアニタは、わずかに身体を反らすだけでそれを回避し、伸びきった左腕の付け根にさらに3発。
わずか数秒の間に起こった一連の動きを、わたしは口を開けただ見ているだけだった。理知的な意思はわたしの感覚器官まで利用し、適格な状況判断を下す。アニタは時にアドリブを交え、一瞬の遅れもなくその指示を易々とこなす。恐ろしいまでの身体能力と戦闘センス。傍で見ているわたしには、ガグが自ら急所を晒して攻撃させているようにさえ思えた。
「さーてと、心臓はどこだ?」
仰向けに倒れ、もがく巨人の右膝を左手の銃で撃ち砕きつつ、アニタは右手の銃の射線を巨体に滑らせる。
『恐らく正中線』
「真ん中撃っときゃ間違いないってぇコトだな」
ガグはアニタを捕らえようと、体液を流しながらも左手を伸ばす。それをアニタは右足で無造作に踏みつると、縦に裂けた口の真下あたりから、等間隔に4連射。
試験体は巨躯を生かした攻撃をろくに見せられぬまま、完全にその動きを止めた。
「あら? あらあら?」
異形の屍体を踏みつけ満足げな笑みを浮かべていた少女が、不意に戸惑ったような声を上げた。中身がアニタから、ふんわりとした思考の持ち主に入れ替わっている。この子が基本人格なのか。
「状況は把握できてるかな? わたしはエニル。あなたは?」
「クリム。クリム・クロフォードですぅ」
差し伸べたわたしの手を握り返すクリム。震えていないし、怯えも伝わってこない。ぼんやりしているように見えて、それなりに肝は据わっているようだ。……鈍いだけってことはないよね?
§
見取り図を頼りにフロアの探索をしながら情報を交換する。クリム“たち”は一つの身体に紐付いているが、お互いに意思疎通はできないらしい。戦闘時に身体を動かしていたアニタや、指示を出していた理知的な女性――ベアトリス――も、自分こそが肉体の本来の持ち主だと認識しているようだが、平時はのんびり屋のクリムが主導権を持っている。
神智研でESPの開発訓練を受け始めて以来、何度か多重人格者の意識に触れたことがある。本人の自覚の有無こそあれ、そのどれもが一つの人格の別の側面を見せているだけのものだった。本質の部分では単一の存在と認識できた。だが、今触れている彼女たちは、それらとは根本的に別物だ。ドア越しの会話の時のように、視覚情報無しに意識を這わせただけなら、3人の別固体が存在していると認識してしまう存在だった。
『魔術班の言うところによれば、エーテル体を拡張加工し、私たち3体分のアストラル体を同居させている状態らしい』
「ひとつの身体に3人分の魂を持ってるってこと?」
ベアトリスのいう魔術班は、わたしを担当する科学班とは全く別系統の技術体系を持っている。現行の法や倫理を外れる行動を容認する神智研の中でさえ、厭われ畏れられる異能者の集団であり、そこには世界に数人しかいない本物の魔術師も含まれているという。眉唾だけど、世間的には充分規格外の扱いを受け、それに相応しい能力を持つに至ったわたしでさえ、クリムたちの存在は理解し切れるものではない。それこそ、魔術の賜物だと認識するほかない。
「すごいねぇー」
自らを含めた話だと解っているのかいないのか。クリムはふんわりと笑みを浮かべた。うん。この図太いというか、肝の据わったところが、この身体の主人格に置かれた理由だろう。
わたしのイメージでは、ひとりづつ身動きの出来ない鉛の棺桶に詰め込まれ、背中合わせで溶接された状態で、呼ばれた時にだけ蓋を開けて貰えるようなもの。正気で居続けるのも難しいストレスフルな状態で、とても合理的な存在とは思えない。わたしが精神感応で呼び掛けて、はじめて主導権が入れ替わるというのも、非常にまだるっこしいやり方だ。
『オレの身体を他人に共有させる理由が欠片もねえ。お互い干渉できるようになってりゃ、他を殺して独り占めだろ?』
乱暴なアニタの思考。おそらく、過去にはそのような形で失敗した試験体も実際に存在したのだろう。起動実験にまでこぎ着けたのが彼女たちだけだというだけで。
それでも疑問が残る。そこまでして、一人の身体に複数の人格を詰め込まなければならない理由があるんだろうか?
『神智学研究所の存在理由の一つが、超人を造り出すことだからだろうな』
ベアトリスによると、魔術師を含むオカルティストたちは、人間を複数の階層で認識しているという。肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体――者によってはさらに多くの階層に分けられるという。
わたしたちが対峙することになる“神”は、さらに多くの階層で構成される存在だとされ、それぞれの階層の広さ大きさも人のそれとは桁が違う。故に実体としての肉体を壊せても、その存在を滅ぼすには至らなかったり、接触すらしなくても、近くに存在するだけで強い影響を受けてしまうのだと。
『神の顕現に至った召喚事例下での活動要員、いずれは対神戦闘に耐え得る兵士の開発育成が主眼だろうな』
冷静に自らの存在理由を分析してみせるベアトリス。わたしと違い、彼女たちには過去の記憶が無いという。隣を歩く少女の身体の本来の持ち主が誰であったかは分からないが、残り2人は肉体を失うことを納得できたのだろうか。
黙り込んだわたしの顔を、クリムは身を屈めて覗き込んだ。
「わたしはねぇ、この世界の隠された面に触れてなお、生き延びられる力を得られたことを感謝しているよ?」
わたしが考えていたことが、解っているのかいないのか。クリムは柔らかく微笑んで見せた。
なんだ。それじゃあわたしと同じじゃないか。知るために生き延びたい願ったわたしと、生きるために形を変えた彼女たち。わたしは、傲慢にも相棒に対し抱きかけていた哀れみという感情を、芽吹く前に摘み取ることができた。
地上へ向かうエレベータはやはり停止していた。扉をこじ開けシャフト内部の梯子を登ってみるも、途中で隔壁が閉ざされ先へ進めない。いざという時に隔離するための構造なのだから、この状況では当たり前といえば当たり前なのだけど。
「下に降りてみるのはどうですかぁ?」
「あとワンフロアと、その下は……うん? どうなんってるんだろう?」
端末で確認してみる。地下深くに造られた第4、第5階層のさらに深奥、地下へのシャフトが伸びたその先には、何のデータも記されていない空間が表示されていた。
「んん、ブランクデータ? 建築予定区画かな。それとも、保管庫か試験体用の演習場になってるとか?」
なんにせよ胡散臭い。わざわざこんな地下深くに作らなければならないというからには、それだけ危険で重要、秘匿性の高い案件が絡んでいるということだ。
「このスペースに資材を運ぶための、別のアクセス手段があったりするかもですねぇ。これはもう、行って確かめてみるしかないですよね?」
クリムは迷いもせずに提案した。考えなしのようだが、この楽天家ぶりには救われる。確かにここで立ち止まり、深刻ぶってみても始まらない。何があるかは分からないが、上がれないなら下りきってみるまでだ。
シャフト内を引き返し、扉をこじ開け地下5階フロアに侵入する。損壊の程度は4階と似たような有様だが、フロアが下なぶん、こっちの方により危険な試験体が収容されてたりするんだろうか。考えるだにうんざりする。わたしたちは警戒しつつ、フロアのほぼ半分の面積を占める広い部屋に向かった。
「これは……」
そこにはひと抱えもある大きな円柱状の水槽が並ぶ、古代ギリシアの神殿のような光景が広がっていた。非常灯の薄緑の灯りに照らされる水槽の中には、さまざまな姿形の試験体が浮かんでいた。
5対の脚と3つの口を持つ甲殻類。犬になろうとして失敗したような、半ば崩れた肉塊。手足を備える、成人男性の胴より太い蛇。上の階で戦った、縦に裂けた口と異形の腕を持つ試験体――ガグ――の、さらに大きな個体も見える。とりわけ形の定まらぬ、灰色の原形質の塊が数多く収められていた。
「珍しい標本? それとも、眠ってるだけなのかなぁ? ともかく、逃げ出してなくてよかったですねぇ?」
クリムは恐れのかけらも見せず、物珍しげに水槽を覗き込んでいる。ベアトリスの感嘆するような思考が漏れ伝わってきた。
「クリムはこういうの怖くないの?」
「どうなんでしょう? 覚えてないけど、前に見てるのかもしれませんねぇ」
3人分の意識を統合する前の記憶は、誰も引き継いでいないんだったか。配慮の足りない質問だったかも知れない。でも、この子たちは例え初見でも、動じたりはしないんだろうとも思う。相棒としては心強い。
「エニルはどうなんです?」
右手側、入り口から3番目の水槽。その中には人間ほどの大きさの、目の無い顔に触手の束を生やした、カエルめいた生き物が浮かんでいる。これには見覚えがある。10年前、地下の納骨所で目にした異形の存在。やはりそうだ。私たち家族がどうして襲われたのか、どうすれば生き残れるのか。恐れず前を向いて進み続ければ、それら全てを知ることができる。
「……さあ、どうかな?」
クリムは水槽に気を取られ、わたしの返事を聞いていない。足が止まりがちな相棒を促しつつ、わたしは部屋の最奥へと進む。
厳重な二重ロックの扉の先は、先程の部屋とは雰囲気が違った。据えられている水槽は特別大きな一つだけ――それも、サンプルを保管するための物ではないのか、無数のチューブやコードが繋がっている。この部屋だけ別系統の電源が用意されているのか、照明を含め、装置の類はどれも作動し続けている。大きな水槽は黒い液体で満たされ、中を伺うことはできない。
「これ、試作中のスーツですよねぇ。優子ちゃんから聞いたことがあります」
優子ちゃん? ……思い出した。院内さんのファーストネームだ。なれなれしい、ツレなのか!
クリムが手にしているチョーカーやリストバンドにはわたしも見覚えがあるが、肝心のスーツ本体が見当たらない。過去の試験で着用したものは、野戦服の下に着込む、身体にぴったりとしたアンダースーツ。体温調節機能はもちろん、防刃防弾効果に優れる特殊素材で作られていた。それだけでは体のラインが露わになってしまうが、下着すら無い手術着だけの今の状態に比べれば、喉から手が出るほど欲しい装備だ。
「それを付けて……ここに入る?」
なぜか語尾が疑問系のクリム。隣に据え置かれたカプセルは、幾本ものホースとコードで水槽と繋がれている。以前着用したものは出来合いだったが、おそらくチョーカーやリストバンド、アンクルバンドがセンサーの類で、黒い液体がオーダーメイドのスーツを形成するって寸法のようだ。コミックのヒーローのような映像が頭に浮かぶ。
だけど、強固な造りのカプセルは、どうにも棺桶めいて見えた。そして、こんな時のわたしの勘はたいてい的中する。
「Shoggoth Shape Suit System?」
『うわああああああああぁ!?』
カプセルに記された文字をわたしが何気なく口にすると、ベアトリスのらしくない取り乱した思考が伝わってきた。
「び、ビックリした。な……何?」
うん? という物問いたげな表情のクリムを置いて、ベアトリスに問いかける。
『ショゴスだと!? エニル、それに触れるな! まだ生きているぞ!!』
恐怖と焦りで混乱するベアトリスの思考を拾い集めてみる。ショゴスというのは、人類以前に南極で先史文明を築いていた種族が生み出した、生物兵器の名前らしい。
「生きてると使えないの?」
『いや……これは恐らく生体素材をスーツに利用する装置だ。実用段階まで仕上がっているなら、先ほどのガグの攻撃程度、脅威にもならなくなる。裸同然の今の君なら、この先の生存確率は数百倍跳ね上がるだろう、が……』
妙に歯切れが悪い。
「なら結構なことじゃない?」
『それは恐ろしく学習能力の高い生物だぞ? 使えば使っただけ間違いなく知恵を付ける。私達が完全に制御し切れる存在ではないはずだぞ?』
ふと微かな意思の反応を感じ取り、水槽に目を向ける。真っ黒な水槽の中から、魚のような眼が一つこちらを覗いていた。『何かが来たから視認してみた』だけらしく、それ以上の思考は何も感じ取れない。しかし、いつから見られていたんだ?
「たしか、これを飲んで使うんだよねぇ」
クリムは懐から赤いアンプルを取り出した。彼女も持たされていたのか。ESP能力のないクリムが使うなら、この生物に着用者を己の一部と誤認させるか、もしくは制御するため、命令の強制力を高めるための物だろう。
不意にベアトリスの懸念の意味が理解できた。もし着用中にアンプルの効果が切れてしまったら? 指示を聞く理由も、守る義務もない柔らかい肉を、己の内側に取り込んでいると気付かれてしまったら?
『古のものと呼ばれる先史種族が滅んだのは、ショゴスの反乱が理由だと伝わっている』
ベアトリスの恐れは充分以上に理解できる。クリムが持っているのは赤いアンプルが2本、緑のアンプルが1本。わたしの手持ちは赤と緑が各1本づつ。今が平時でわたしたちが正気であるなら、当然のように忌避すべきおぞましい装備だろうけど――
「それじゃあ、わたしから試しますねぇ?」
迷うわたしを尻目に、クリムは服を脱ぎ始める。
「ちょっと待って、考えたの!? 思い切りよすぎ!!」
『ふざけんな! オレはごめんだ!』
『私は断固拒否する!』
わたしの制止と重なるように、アニタとベアトリスの拒絶の意思が伝わってきた。
「あら? あららー?」
クリムは脱ぎかけの奇妙なポーズのまま固まった。主導権がなくても、生死に関わる場面での強固な反対の意思は、多数決が働くのか。便利なようで不便な存在だな。
「クリム。まずはわたしが試してみるよ」
『馬鹿なのか? やめろ』と喚くアニタと、『今のうちに殺しておくことを勧める』と諭すベアトリスを尻目に、わたしは手術着を脱ぎクリムから受け取った装備を身に付けた。これ自体はあくまで着用者の指示を伝えやすくし、着用者とショゴス双方の状態をモニタする用途の物のようだ。重要なのはアンプルの方。迷わず効果の強い緑を飲み干し、カプセルの中に横たわる。
「それじゃあ、閉めるよー?」
操作は身体の主導権を取り戻したクリムに任せる。どこかわくわくした様子が微妙に苛立たしい。頑強な蓋が閉まり完全にロックされると、カプセルの内部は真の闇と静寂に閉ざされた。やがてじわじわと足元の方から生暖かいゲル状のものが染み出し、徐々にわたしの身体を包んでゆく。
思わず巨大な生物に丸呑みにされるさまを想像しかけて、慌てて打ち消した。例えアンプルの効果がある時でも、ショゴスに恐怖を抱いたり、異物であることを意識させ続けるのは得策じゃない。これはあくまでもスーツ。道具なんだ。
首元まですっぽり覆われた段階で意識を這わせてみると、やはりショゴスは胎内に壊れやすい器官を形成したと誤認しているようだ。当然、思考と行動の主導権はわたしにある。
「終わったのかなぁ?」と呟くクリムの声が、密閉されたカプセルの中からでも聞こえる。スーツが感覚器官の補助もしているらしい。
「わぁ、上手く行ったみたいだねえ。次はわたしが!」
身体にぴったり張り付いた黒いスーツは、光の加減で虹色の光沢を放つ。カプセルの蓋を開け、わたしの姿を見て感心した様子のクリムは、服を脱ごうとして再び固まっている。やはり、他のふたりの同意は得られないようだ。
『行けそうか?』
わたしは硬いベアトリスの思考に頷いてみせた。幾つかの計測器の類をスーツの上に装備する。
「頭は? ヘルメットとかゴーグルないのかなぁ?」
クリムの疑問を耳にし意識した瞬間、スーツが瞬時にフルフェイスのヘルメットを形成した。
「うわぁ!?」
色はスーツと同色のようだが、内側からはクリアな視界が確保できる。呼吸も問題ない。これならBC兵器使用下でも、ショゴスを殺し切れないレベルのものなら、障害なく自由に行動できそうだ。安全性を考えればこのまま行動すべきだろうが、頭から食べられるのを連想し、心理的圧迫感が強すぎる。首から上を覆うのは、いざって時だけにしておきたい。
「ひとつ思い出した。優子ちゃん、これを着て『もうだめだぁ』って時は、強くそう思うだけで楽になれるって言ってたよ?」
チョーカーの内側に何かギミックがあるのには気付いていた。思考に反応して投与される、自決用の薬物だろう。着用者よりスーツの方が大事なのか、それともショゴスを無力化するのは不可能だというのか。どちらの理由にせよ、開発者のなけなしの思いやりなんだろう。確かに、生きながら消化されるのを待つ最期はぞっとしない。
左手首に巻いた、作動限界を示すモニタが示す数値は残り3時間。だけどこれは試作段階での目安でしかない。限界はむしろ、着用者であるわたし自身の方がよく分かっている。
拳銃の事といい、院内さんは悲観的な方向にだけ、やけに手回しがいい気がする。嫌がらせか? 嫌われているのか?
無事脱出できたら、一発くれてやらねばなるまい。
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