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シェルランナーズ

 神智学研究所の実験施設で目覚めたエニルは、調整されたばかりのESPと限られた装備だけで、事故により放棄された地下施設からの脱出を指示される。
 相棒は同じく調整されたばかりのクリム。一つの身体に三人分の魂の詰め込まれた彼女とのバディで、エニルは危険な試験体の解き放たれた施設の最下層を目指す。
 最下層で改めて告げられる強行探索班としての初任務。それは主の反応の消えた旧い神の寝所に向かい、情報を持ちかえること。

地下空間:寝所 → 地上

 結局クリムはS-スーツを装備することはできなかった。分断されているとはいえ、わたしよりはるかに優れた分析能力と身体能力の持ち主だから、致命的な問題にはならないだろう。

 フロアの西の端にあるドアを開けると、そこは岩肌が剥き出しの、吹き抜けの空間になっていた。見上げればぼんやり天井の壁面が見えるが、見下ろすとどこまでも深い闇が広がるばかりで底が見えない。拡張予定があるのかもしれないが、研究施設はここまでのようだ。

 岩肌に備え付けられた階段を下りた先には、貨物用の鋼索鉄道が設置されていた。停まっている解放式の台車に乗れば、さらに下へ降りることができる。

「なんかどんどん潜っちゃうねぇ。わくわくします!」
「勘弁してよ。こっちは時間制限あるんだから」

 クリムは手摺りから身を乗り出し、下を覗き込んでいる。ぼやいては見せたが、確かに大きな作動音を立てる工業機械を操作するのには、少しだけ冒険心がうずいた。2体の試験体と遭遇した4階と違い、5階では逃げ出した試験体と出くわさずに済んだ。下の方が安全なのだろうか。だとすれば、あとは別のアクセスルートを見付けさえすれば、ここから脱出できる。

 気を緩めかけたところに、ふと何かの気配を感じた。蚊の羽音程度の異物感。クリムに目を向けるも、何かに気付いたふうもない。あいかわらず手摺から身を乗り出して、レールの先の闇を覗いている。

 わたしだけがS-スーツを着込んでいるからだろうか。ショゴスの感覚器官を利用すれば、真後ろを視認することさえ可能だし、台車の作動音が響く中からでも、異音を拾い上げることができる。

 管理室で遭遇した、不可視の試験体を思い出した。こちらの視覚を誤魔化せるタイプかもしれない。さりげなくクリムに注意を促すと、わたしは台車の上にくまなく意識を這わせた。

 かつんと。

 不意に右即頭部に衝撃を覚えた。軽い物が掠めた程度の感触。S-スーツの視覚も併せ意識をそちらに向けると、ぼんやりと白い靄のようなものが見えた。

「クリム!」

 ESPで指示を受けたクリムは、わたしの視線を頼りに抜き撃ちで3発。当たったはずの弾丸は、靄を揺らめかせることさえかなわない。

「当たった?」

 クリムには見えていないのか。靄はじわじわと形を変え、粘液を滴らせ光る、ナメクジめいた細長い擬肢を形成する。先端には鍵爪を持つ小さな手。8本ある擬肢の一つは、既にわたしの即頭部を捉え爪を立てている。

「エニル!?」

 苦痛の声を上げるわたしに慌てるクリム。だが認識すらできない襲撃者に、ダメージを与える術はない。

 擬肢を振りほどこうと、台車の上をもがき転がるわたしは、遅まきながらS-スーツのヘルメットに思い至り形成を試みる。だが細く青白い腕は断ち切られることなく、ヘルメットを透過し側頭部に食い込んだまま。

 いったいどこからの・・・・・攻撃だ!? 焦り混乱するわたしの目の前で、擬肢の持ち主は次第に姿を明確にし、青白いコウモリのような羽根を広げ――

 痛い! 冷たい! つめたいツメタイツメタイツメタイツメタイツメタイつめたい!!!

『見ようとするな! 意思をこちらに繋ぐんだ!』

 脳内に氷柱を突き刺されるような痛みの中、微かに伝わるベアトリスの思考に縋り付いた。

『よーしよし、なんだぁ、こっち・・・で触れる獲物ってのも珍しいよなぁ!!』

 アニタの獰猛な笑い声を感じながら、わたしの意識は闇に落ちた。

            §

「大丈夫?」

 心配顔のクリムが覗き込んでいる。左手首の計測モニタに目を走らせると、幸い気を失っていたのは僅かの間だったようだ。

「うん……。さっきの試験体は?」

 台車は最下層に辿り着き止まっている。見回してみても、わたしを襲った試験体の屍体らしき物はどこにもない。

「分からない。けど、もういないみたい?」

 疑問形のクリムの返事を、ベアトリスとアニタの思考がそれぞれ勝手に補足する。

『食脳種。喰らうものはそちら・・・側には存在しない。認識した者の脳内で形を取り脳を喰らう。君には非常に相性の悪い存在だったな。しかし、研究班が扱うには危険すぎる。本当に逃げ出した試験体なのか?』
『なんてこたあねえ、魚を捌くより楽な仕事だったぜ。やったこたぁないがな! もうバラバラにしてやったが、構わねえよな?』

「……ありがとう」

 わたしのESP能力が最悪の形で嵌った形だったのか。そのままステレオで始まるベアトリスのお小言とアニタの武勇伝を聞き流し、わたしはクリムに礼を言った。

 攻撃を受けた所を無意識に確認すると、指先に違和感があった。鉛筆の太さほどの穴が開いている!?

「ちょ、穴開いてる!?」

『言っただろう、食脳種だからな。脳を少しは吸われた様だが、問題は無さそうだな。そんな危険な装備に手を出しても、防ぎきれない物もあるという事だ』

 良い経験になったなと、したり顔の様子で云うベアトリス。人ごとだと思って!

「あっちに良いものがあるよ!」

 笑顔のクリムが指し示す方を見ると、機関車が停まっていた。資材の運搬用らしい。ここは物資をやり取りする駅ということか。レールの続く先は分からないが、脱出の目処は付いた。ホームを捜索すると、回線が生きている通信機が見付かった。鋼索鉄道と同じように、研究施設とは別の非常用電源が使われているのか。これなら機関車も動かせるのかもしれない。

『おめでとう! 試験は無事クリアです! やったね!』

 院内さんとのコンタクトはすぐに取れた。死に掛けたばかりのわたしには、少なからぬ殺意を抱かせる賑やかさだったが。

「機関車が停まってます。これで地上へ出れるんですか?」

 研究施設同様、路線や向かう先がトラブルに見舞われていたり、途中で隔壁を下ろされていたら目も当てられない。

『んー、今のところ無事みたいな? 先へ進むことはできるけど、動かし方は分かるかな?』

「やってみます。無理ならレールを伝って進みます」

 しばしの間があったあと、院内さんが咳払いをした。……嫌な予感がする。

『えー、それではこれから本格的な任務に取り掛かって貰います! 鉄路と反対方向にも横穴が続いてるのが見えるよね? そのまま進むと、窪地になった広い空間になっています。そこには『星の知慧』が記された『旧き鍵』と呼ばれる石版があるはずなので、調査のうえ、可能な限りの情報を持ち帰ってね!』

『まてまてまて、ウボ=サスラの寝所だったのかここは! 貴女はろくに装備もない生身で、外なる神に相対しろというのか!?』

 ベアトリスの取り乱した思考が伝わってきた。冷静なように見えて、案外耐性は低い方なのかもしれない。

「院内さーん、ベアトリスが外なる神とか言ってますけど、またなんか無茶振りしてます?」
『バレたか!』

 バレたかじゃないよ。

『それではここで幸運なお知らせです! 結界の消失と共に寝所の主の反応もなくなりました。今なら好きなだけ探り放題です!』
「それは上のトラブルと関係してるんですか?」
『詳細は現在調査中です。ただし! 制限時間は一時間! 頑張ってね!』

 院内さんの情報が正しくて、この先危険がないとしても、ずいぶん急かされるものだ。障害となる敵性が消えたなら、復旧してから改めて調査班を送り込めば良いような気がするが――

「S-スーツの稼働制限もあるから御の字だけど、ずいぶんタイトですね……」
『あ! あのスーツ本当に着てくれたの? エニルちゃんの制服用意するの忘れてたけど、これで結果オーライだね!』

 あれ、単なる置き忘れだったの!?

『クリムちゃんはどうかなー? お姉さん、2人の晴れ姿見たかったなー』

 三十路が! 可愛くお姉さんぶっても、ESPの前で年齢はごまかせないぞ!

「わたしは着てないですぅ」
『あ、そう。クリムちゃんはいいの。エスニック衣装似合ってるからね!』
「ありがとうございまーす!」
「…………」

 なんだ? なんかやっぱり扱いに差があるんじゃない?

 院内さんの駄弁に付き合って、限られた時間を浪費するのも惜しい。わたしたちはすぐに鉄路と反対方向へ向かうことにした。出来るなら装備を補充したかったが、ホームや駅舎の中に銃器の類は見当たらなかった。非常用箱に入っていたバールと、職員の物らしい携帯食一箱がわたしたちの収穫だった。

 拳銃の弾は残り10発。クリムの弾倉に7発、わたしの弾倉に3発を込める。アンプルはクリムの分も全てわたしが持ち、バールはクリムが帯に差している。

「反対しないで受けちゃったけど、いいの?」

 ベアトリスは消極的賛成、アニタも反対はしなかったが、クリム自身の意見を聞いていない。わたしも彼女たちも、それなりの時間と資金を注ぎ込んで作られた存在だ。試験段階での無理な運用による損失コストを訴えれば、院内さんもあるいは即時引き上げに同意してくれたかもしれない。

「んー、そう言うエニルも反対しませんでしたよねぇ?」

 歩きながら携帯食をかじるクリムは、わたしの目を伺うように覗き込んだ。

「わたしはねぇ、昔のことはあまり覚えてないけど、ここで付けてもらったのと違う名前を覚えてるんです」

 少し胸を張り、

「『走る貝』。世界がまだ熱い泥だけだったころ、盲目のそれが進んだ道が土になり理となった。人は開いた二枚の貝の上に住む事になった。そんな存在にちなんだ、りっぱな名前なんですぅ」

 知らない神話だ。どこに伝わる創世の物語だろう。アニタとベアトリスも、それは自分の・・・真の名だと主張している。本当のところはどうなのか分からない。けれどもそれは、彼女たちにとって大切な記憶なのだろう。

「気が合うね。誰も歩いていない道があるなら、わたしがそこを歩いてみせる」

 時間を区切られたということは、ここでわたしたちが引き返せば、情報を手に入れる機会が失われるということでほぼ間違いがない。この先で手に入れるものが、顕現する神への対抗の糸口になるにせよ、既存の概念の枠を凌駕する装備の材料になるにせよ。現場で行動するものたちの役に立つなら、迷わず先へ進みたい。
 わたしはあの日、地下納骨堂で差し伸べられた、大きな手を思い浮かべていた。

 洞窟は自動車でも走れるほど大きく広いものだった。幅は6mほど、高さも同じくらいか。等間隔に電燈が設置され、充分な視界も確保できる。ここはまだ結界の効果の無かった範囲だろう。10分程のち、わたしたちは警戒しつつ急ぐ足を止め、壁際の岩影に身を潜めた。

 前方に小走りに駆ける人影らしきものが見える。ヒラヒラのフリルの付いた、黒のゴシックドレスを身にまとった、小柄な金髪の少女。場違いにも紛れ込んだ生存者なのか、それとも視覚を惑わすタイプの試験体の偽装だろうか。

 今回はクリムにも同じものが見えているらしい。声を掛けるか仕掛けるかを、目顔でわたしに確認してくる。アニタやベアトリスの警告もない。このままだと、少女の方が先に目的地に辿り着いてしまう。敵性存在の可能性が高いが、人に見えるものを無警告で撃つのもためらわれる。

 直前に死ぬような目に合ったばかりだけれど、ここは定石どおり意識を這わせることにする。思考は人間のもの。急いでいる。目的はこの先にある『旧き鍵』。だが神智研の別働班ではない様子。

 もう少し意識の深い部分を探り、敵だという確信を得ることはできないか。その慎重さ、あるいは臆病さが失敗だったと気付いたときは、もう遅すぎた。

 そびえる9本の石柱。
 翼持つ従者の群れ。
 圧倒的な存在。
 空を覆う影。
 蠢く触腕。
 吹き荒れる風。
 捧げられる贄。
 作り変えられる者達。
 複数の眼球が、わたしを捉え――

「人間と動物の大きな違いの一つに、言葉を使ったコミュニケーションを数えるのに異論はないよな?」
「……はい」
「実際は鳴き声による情報交換をする動物ってのは、そう珍しいものじゃない。なら、何を持って動物より人間の方が優れていると証明する?」

 ぺちぺちと尻を叩きながら少女が問う。

「えと……情報の密度?」
「ふん。あたしが思うに察しだよ。言葉を越えて相手を慮る心遣い。それがなければ、霊長を気取ったところで禽獣にも劣る。そうは思わないか?」
「まったくですぅ」

 正座したクリムが合いの手を入れる。少女の手がギリギリ届かない場所で。把握した。クリムはこういう生死を分ける状況判断を、無意識にやってのける奴だ。

「なら、可憐な美少女に向かって、警告なしで背後から銃を乱射するなんてのは、人として到底許される行為じゃないってことは分かるよなぁ?」
「……ほんとすみません……マジ反省してます……」

 ゴシックドレスの少女の意識から、意図せず強大で忌まわしい存在に繋がってしまったわたしは、その場で錯乱し銃を乱射してしまったようだ。残弾が少なかったのも幸いした。少女は傷一つ負うことなくわたしを昏倒させると、わたしを人質にクリムをも武装解除させた。この間わずか3分。

 全裸で土下座させられたわたしは、その姿勢を保ったまま少女の椅子にされ説教を受けている。意図してなのか偶然なのか、黒手袋に包まれた少女の細くしなやかな指が、時折わたしの敏感な部分に触れる。
 ヒップはいいけど、アヌスは勘弁してください!

 S-スーツがどういうものか即座に見抜いた少女は、どうやってかは知らないが、気を失っているわたしからスーツを剥ぎ取った。少女にとっては武装解除の意味合いだろうが、装着者が意識を失った場合のセーフティーがどの程度か分からない現状では、ある意味ありがたい措置だったとも言えなくもない。

 ショゴスは視覚器官を一つ形成した以外は、一抱えほどの塊の状態のまま大人しくしている。ショゴスに犬のように群れの序列に従う習性があったなら、この構図を観察されるのは非常にまずい。指示の優先度が下がる危険があるし、なにより人として年頃の女としてのわたしの尊厳が、おおいに損なわれ続けている!

「時間がない。訊くまでもなくどうせ目的は同じなんだろ? 協力するなら『星の知慧』回収まで休戦って形にしてやってもいい」
『この娘は銀の鍵の魔女――アスキスじゃないか?』

 少女に心当たりがあるらしいベアトリスは、どうやら賛成の意向のようだ。わたしは怖くて、もう少女の方に意識を向けることさえできないが、この魔女にもわたしたちと共闘――いや、利用したい理由があるらしいのは理解できる。わたしたちを殺すつもりなら、とっくにそうしている。

 しかし話に聞いたことはあるが、本物の魔女、しかも旧支配者の力を扱える存在と、いきなり鉢合わせするとは。不運なのか、幸運なのか。不用意にも触れてしまったあれ・・が、死してなお滅びない、名付けざられしものハスターという存在の片鱗なのだろう。ESPを精神防壁に回したとして、本物のあれ・・と対峙することが適うだろうか。

「出来れば協力するのは、脱出までってことでお願いできませんかぁ?」

 委縮するわたしを尻目に、クリムは遠慮がちなようで大胆な提案をかます。

「クン=ヤンの民か? これはまたずいぶん好き勝手弄られたもんだな……」

 こっそり盗み見ると、アスキスはアーモンド形の瞳を細め、何やら苦いものを噛み砕いてしまったような顔をしていたが、

「いいだろう。お前らには存分に役に立ってもらうぞ!」

 獰猛な笑みを浮かべて立ち上がりざま、行き掛けの駄賃とばかりわたしの割れ目に指を滑らせた。

「うひゃあ?!」
「その趣味の悪い装備にも、ひと暴れして貰うことになりそうだ」

 奇声を上げて転がるわたしに構わず、黒衣の魔女はショゴスの異形の単眼に鋭い視線を絡ませた。

            §

 駆けながら手早く情報交換を済ませる。この研究施設は、発掘された外なる神・ウボ=サスラの寝所の直上に建造された物らしい。

「顕現してから数十億年のスパンで、この場に横たわっている存在だからな。人間とは物差しが違う。大規模な地殻変動でもなけりゃ、ここから動くとも思えない。神智研の連中は、観測所兼檻として施設を設置し、産み落とされる落とし仔をサンプルとして捕獲しつつ、じっくり攻略するつもりだった様だが――」

 水槽に浮かぶ異形の群れ。あれらのうち多くがウボ=サスラの落とし仔なのだろう。

「ウボ=サスラの影響で、寝所には近付いただけで退行現象が起こる結界が形成されている。石版に辿り付くころには、例え魔術師でもプラナリアだかアメーバだかに成り下がっちまう。遠隔操作でカメラを使い測定しても、モニタ越しに影響を受ける厄介な代物だ。そのせいで3度は施設の放棄に追いやられたそうだからな」

 これで4度目かと、アスキスは人の悪そうな笑みを浮かべる。

「20年に及ぶ試行錯誤のあと、今日未明に起きた震度6強の直下型地震の直後、神性の反応ごとその結界が消えた」
「…………」

 わたし達が眠っている間に起きたこととはいえ、部外者から状況説明を受けるのは複雑な気分だ。

「見計らったように動ける魔術班メンバーがいない時にだ。偶然のはずがない。だから上の連中も、調整中のお前らを投入せざるを得なかったってことだろうよ」

 アスキスの笑みが少しだけ形を変え、なかば閉じた碧の瞳がわたしたちに向けられる。うん? これは哀れまれているのか、気遣われているのか……?

 壁の照明が途切れた。ここからは先は結界の効果があった範囲。人の身では辿り着けなかった未踏の地。真の闇が広がっているが、S-スーツが視覚・聴覚・触覚を補ってくれる。クリムは夜目が利くほうだと言っていたが、星明りすらない状況では、さすが満足に歩くことさえできないだろう。

 クリムに赤いアンプルを飲ませ、わたしの得る感覚情報を同期することを試みる。だが、わたしが見るクリムの姿を見るのでは、ゲームキャラを操作しているようなもので、細かい状況判断はできそうにない。

「まだるっこしい、ちょっとこっち向け。瞬きするなよ」

 わたしたちのやり取りを眺めていたアスキスが、イラついた声を上げた。ポケットから小瓶を取り出すと、ぎくしゃく動くクリムの顔に中の粉をぶちまけた。

「うわぁ、なんです? あら? あらら? すごい! 見えるように――」

 クリムは感嘆の声を上げ辺りを見回していたが、不意にふらついて壁に手をつき、食べたばかりの携帯食を戻してしまった。

「う……ぐぅ……きもちわるい……」
「だ、大丈夫?」

 慌ててクリムと感覚を繋いで確認してみる。不思議なことに、周囲の岩壁がはっきり見える。急にクリアな視界を手に入れ、乗り物酔いのような状態になってしまったらしい。頭がくらくらする。

「初めてならそんなもんだ。心配すんな」

 悪びれた様子もなく言い放つアスキス。

「足を引っ張られても困るからな。これはあたしからのサービスだ」
「あんたねぇ……」

 可愛らしくウィンクして見せるが嬉しくない。何かするときは前もって説明してくれないと!
 褒めるべきはアスキスの粉薬の効果か、クリムの適応力か。それを最初に発見したのは相棒だった。

「なにかいます」

 洞窟前方、床面中央。大き目の岩かとも思ったが、明らかに人工物。素朴な造りの顔がこちらを向いている。彫像か?

「あのババァ、やっぱり生きてやがったか……」

 しかめっ面でアスキスが呟いた。どこか楽しげな声音なのは、わたしの気のせいか。

「誰のこと?」
「アビゲイル。あたしの師匠だ。あのごうつくばりが。『星の知慧』を独り占めするつもりか!?」

 アスキスと同じ、銀の鍵の字を持つ魔女。確か今は消息不明のはず。そもそも魔術班は、便宜上班と呼んではいるが、わたしやクリムのように、正式な構成員と呼べる存在ではない。なぜなら魔術師は個として知恵と力を蓄え、各々の目的と行動原理を持っているからだ。神智研とは利害関係の一致でのみ繋がっている者たちで、いつ離反し対立してもおかしくないほど脆い繋がりしか持たない。

「分かってるとは思うが、あれをぶっ潰さないとウボ=サスラの寝所には辿り着けない。手強いぞ、気合入れて行け!」

 クリムは「ある」ではなく「いる」という表現をした。微かにだが、アスキスを介して触れてしまった存在に似た感覚がする。こんどは踏み込みすぎて飲み込まれないよう、細心の注意を払い意識を這わせる。およそ3mの距離に近付いたとき、不意にそれの前面が観音開きに開いた。鉄の処女――アイアンメイデンか!

 中には何も見えない。――いや、どろりと溢れる闇よりも濃い黒の粘性、これが本体か。視覚だけに頼っていたら、闇に同化し何も見えなかっただろう。

 クリムの射撃は正確にそれを捉えるも、ダメージを与えた様子はない。触肢で形成された槍を避けながらアスキスが風を放つと、すばやく鋼の棺の中に閉じ篭る。埒が明かない。

「ありうべからざるものか。いると分かってりゃ、追い払う品くらいは準備できたが――」

 再び蓋が開き、形成された無数の針が迫る。全てを避け切れずS-スーツを掠めるも、裂かれた傷は自動的に修復された。

「とりあえず、ガワを何とかしろ。あとはあたしがやる!」

 黒い針にドレスを穴だらけにされたアスキスが、舌打ちと共に指示を飛ばした。

「アニタ!」

 戦闘が始まってから、早く代われと煩くわめいていたアニタは、片手撃ちで触肢を牽制しつつ突進。右手でバールを抜き払う。

「こんのぉッ!」

 アニタは閉じかけた鉄蓋にバールを打ち込み、力任せにこじ開けようとする。
 隙間から滲み出た触肢が極薄の刃を形作り、アニタの首筋を狙って走る。

「危ない!」

 距離を詰めていたわたしは、アニタを突き飛ばした。
 刃はアニタのスカートを切り裂くに留まり、返す刀で形成した鎚をわたしに振り下ろす。

 わたしは転がりながらかわし距離を取った。鉄の処女は据えられた位置から動かない。どうやら侵入者をここから先へ通さないことだけが目的のようだ。

『合わせて!』

 ESPでアニタと完全にタイミングを合わせ、左右から仕掛ける。
 ありうべからざるものには、人間程度2人でも同時にあしらえる力はあるようだ。
 それでも、こちらは受け持つ触肢が半分で済む。
 打ち込まれる黒い槍を、硬質化させたS-スーツの上腕で受け流し、左側の蓋に指を掛ける。
 ほぼ同時に刃をかわしたアニタのバールが、右側の蓋に掛かった。

「いいぞ! そのままだ!」

 アスキスの詠唱が始まる。鉄の処女に潜むのは、ありうべからざるもの。この顕現はほんの欠片とはいえ、『黒の淵』に数えられた一柱であるニョグタ自身だ。例えアスキスでも簡単に砕けるはずがない。恐らく退去を請い願うための呪文だろう。

 鉄蓋を閉じさせないために、最悪手痛い一撃くらいは喰らうことを覚悟していたが、這い出した触肢は逆にわたしを絡め取り、中に引き込もうとする。

「なんですとッ!?」

 慌てて手足を蓋に引っ掛け、S-スーツの筋力補助をフルに使って抵抗を試みる。

『やばいやばいやばい』

 本物の鉄の処女らしい蓋の裏には、鉄釘の群れとびっしり書き込まれた呪文が見える。引き込まれれば鉄の処女の抱擁を味わったうえ、この身がニョグタへの捧げ物になってしまう。

 鉄の処女の中に逃げ込めないのを悟ったか。ありうべからざるものはわたしに絡みついたまま外に這い出し、岩の隙間から地面に染み込み始める。

「ちょ、これほんとマズイ! アニタ! アスキース!?」

 S-スーツにアンカーワイヤーを形成させ、手当たり次第に辺りの岩壁に打ち込むも、岩の方がニョグタの力に耐え切れず崩れてゆく。

 折り畳まれて、無理やり岩の隙間に引き摺り込まれるかと覚悟した瞬間。奇妙な浮遊感に包まれたあと、わたしはアスキスの腕の中にいた。

 ハスターやツァール、ロイガーは、風に乗って贄をさらう。ハスターの力を振るうアスキスには、手品のような人攫いはお手の物だったか。細い金髪。碧の瞳。桜色の唇。お姫様抱っこされ間近で見る彼女の表情は、ため息が出るほど美しく思えた。

「頬を染めるな、気持ち悪い。先を急ぐぞ!」

 口元を歪めたアスキスに不意打ちで投げ出され、尾てい骨を打つ。

『だいじょぶですかぁ?』

 お尻を押さえ、羞恥と痛みでうずくまるわたしに、クリムだけが気遣いをくれた。

 鉄の処女の据えられていたほんの十数メートル先には、広い空間が広がっていた。
 どれだけ高いのか天井を見ることはできない。干上がった池のような形で、浅い窪地が広がっている。地下水が流れた形跡はないから、これが外なる神性の存在した跡だろう。向こう岸まではおよそ200mほど。歪な円を描くように、巨大な石版の群れが立っているのが見える。その数13。

「急げよ」

 短く言い残すと、アスキスは手近な石版に向かった。念のため、わたしたちは時計回りの彼女とは反対に進むことにした。時間切れの際、取りこぼす情報を減らすためだが、後から彼女に照会できるのかは怪しいものだ。

 目の前に高さ3mを越える石版がそびえ立っている。ベアトリスによれば、『旧き鍵』と呼ぶこのわずかに青みがかった石は、遠い星で切り出されたものだという。その表面には、地球上のどの文明とも似付かぬ文字の群れが刻まれている。これだけ多くのサンプルがあれば、『星の智慧』と呼ばれるその記述内容も解読できるかもしれない。

『認識することで発動する罠が仕込まれているかもしれない。読もうとはせず、持ち帰ることにのみ注力するとしよう』
「……どうやって?」

 分かるような分からないようなベアトリスの忠告だが、あいにくわたしたちは映像を記憶できる機器を持ち合わせていない。

「わたし、見たものをそのまま覚えておけるよ?」

 クリムが手を上げる。サヴァン症候群に見られるような能力だろう。急ごしらえのチームに見えて、あらかじめ必要なものは用意されている。だが、それが装備ではなく能力として備わっていることに、わたしは微かな不快感を抱いた。わたし達はどこまでも道具扱いということか。

 クリムは石板を上から下までざっと目を通しただけで次へ向かう。嘘ではないらしい。わたしがどう感じようが、どのみちこの場で他の手段は存在しない。

 5枚目の石版へと向かうさなか、何ものかの気配を感じた。銃を構え周囲に意識の網を張る。クリムから預かった弾は残り1発。精神攻撃が通る相手でなかったら、わたしたちにはもう打てる手はない。

 石版の影に何かが隠れている。敵意は感じられない。深い怯えと……好奇心? 場違いな思考に銃を下ろし、わたしはそっと裏側を覗いてみた。そこにはしゃがみ込み、ぷるぷると震える裸の子供の姿があった。

 青白い肌に灰色の髪。様々な人種の平均値を取ったような、特徴の無い顔付き。濃いグレーの大きな瞳には、探るような気配がある。人に見えるが人ではない。乳首や生殖器の無いその身体は、人間を模しただけのヒトガタ。だが、何かが擬態しているのでもなく、この姿が本来のもののようだ。

「なにかいました?」

 それの前にしゃがみ込み、どうしたものかと思案しているわたしに続き、クリムが裏側を覗き込んでくる。ヒトガタを目にした瞬間、クリムが発砲した。

 反射的に手を払い狙いを反らす。いきなり耳元でぶっ放されて耳がキンキンする! クリムは何の感情も表さぬままヒトガタに残弾を撃ち込もうとする。わたしはESPで精神に衝撃を与え、クリムの意識を飛ばした。

「どうした?」

 銃声を聞き付けたアスキスが駆け寄ってくる。わたしは取り急ぎベアトリスを呼び出し、状況を確認する。

「何がどうしたの? かけらの殺意も感じさせない、いきなりの発砲だったけど?」
「分からない。こちらもクリムが視認した直後の発砲としか認識していない」

 アスキスは再び石版の影に隠れたヒトガタを見詰め、何か考え込んでいる。

あれ・・はここにいたのか?……最後の落し仔……いや、ウボ=サスラの実験結果か……?」

 わたしはクリムにも直接尋ねてみた。肉体的にダメージを与え気絶させた訳ではないので、直ぐに反応が返ってきた。こういう場面では便利だな。

『あらら? いつの間に入れ替わったんです?』
「あの子を撃ったの覚えてないの?」
『エニルがなにか見付けたみたいだから、わたしも覗いてみて――あら?』
「後催眠暗示か何かだろ。『人の形をした人以外の存在は、発見次第殲滅』とかな。いかにも神智研の連中のやりそうなこった」

 アスキスは皮肉っぽく口元を歪めた。

「何でそんな回りくどいことを? それが任務なら、わたしやクリムだって――」
「現にお前は撃たなかった・・・・・・ろ? 敵意が無いからってな。こいつに暗示を掛けた奴は、ここで見ることになるものまで予め見越した上で、保険を掛けてたんだろうよ」

 信頼されない己に対する羞恥なのか、組織に対する不満なのか。アスキスに何も言い返せずに、押し黙るわたしの胸の奥に、言いようのない感情が重く溜まった。

「まぁ、失敗しちまったものは今さらどうしようもないよなぁ?」

 笑いながらアスキスが顎で差す方を見ると、青白い小さな影が、わたしたちが入ってきた洞窟に向かって脱兎のごとく逃げて行くところだった。

「あー……」
「あれは今のところ脅威にならない。それより、『星の智慧』が先だ」

 どんな手段を用いたのかは分からないが、アスキスは見るだけで記憶できるクリムと同程度の時間で情報を集め切り、洞窟への入り口で落ち合った。帰路で何も起こらなければ、院内さんの告げた制限時間内にホームへ辿り着ける。

 帰り道、アスキスは鉄の処女の内側に書き込まれた呪文に気を取られ足を止めた。なにやら訝しげな顔をしていたが、直ぐにわたしたちに追いついた。

「お前らの脱出の手はずはどうなってる?」
「貨物運搬用の機関車が使えるみたい。院内さんに確認してみる」

 駅舎に駆け込み通信機のマイクを取るや否や、待ち構えていたらしい院内さんに繋がった。

『おめでとう! ありがとう! 君たちならやってくれると信じてたよ。信じて送り出した私もなかなかのものだけどね!』
「ぐだぐだ駄弁るな、やかましい! 回収の手筈がどうなっているのかと、誰が決めたかを教えろ!」

 アスキスはわたしからマイクを奪うと、通信機越しに院内さんに噛みついた。

『あら、ゴスロリちゃん? 久しぶり! やっぱり君も来たんだね。えー、これから50km先の地下研究施設へ向かって貰います。機関車を動かせれば30分程度で着くよ! そこまで行ければ地上に出られます。緊急案件扱いで所長の直接指示だから、安心して!』
「ここを見舞う災厄の規模は当然見当付いてるんだよなぁ? 落下速度も被害規模も計算しなおせ! あのババァに読まれてんぞ!?」

 激昂するアスキス。話の流れが見えない。

「脱出の最短ルートを提示しろ!」

 いきなり振られ、わたしは慌てて端末に地図を表示した。

「えッ? 直通エレベーターは一本だけ。電源落ちてるうえ、隔壁閉じてて進めなかったけど――」
『隔壁の操作は外からしかできません。地上施設の職員はすでに避難済みです……アスキス』

 通信機から聞こえる院内さんの様子が改まっている。何かとても悪い結果が出てしまったらしい。

「あん?」
『彼女達の事も頼めますか?』

 アスキスはため息を一つ吐くと、

「このままじゃ寝覚めが悪い。神智研にじゃねえ、あんた個人への貸しにしておくぞ!」

 通信機のマイクを叩きつけ、駅舎を飛び出した。

「ねえ、どういうこと?」

 回収プランが反故になったらしいことは推測できるが――

「じきここに隕石が落ちる。アビゲイルの置き土産だ」
『いくら魔女でも、そんな芸当ができるはずがない』

 ベアトリスの訝しげな思考。わたしも同意見ではあるが、なぜだか嫌な予感が暗雲のように広がって行く。

「因果律にほんの少しづつ干渉して、起こりえないことを実現させる。あのババァお得意の呪いってヤツだ。奴なら風が吹いたのに気付きさえすれば、桶屋の隣の棺桶屋を儲けさせることだってできる」
「でも、隕石の落下なんて大きな災害、こちらでも当然観測できるじゃない?」
「だろうな。実際地上の退避はすでに完了している。だがあの鉄の処女に、排除されてから初めて発動する呪いが埋め込まれていた。自分以外の誰かが『星の智慧』を手に入れても、決して逃がさないためのな」

 わたしは恐怖で身体がこわばるのを自覚しながら、鋼索鉄道の台車に乗り込んだ。

「天文や気象の類の大きな事象は、最初から大雑把にしか予測できない。そこに『数値をほんの少し読み違えた』、『報告が偶然遅れた』そんな些細なミスが重なれば、『予測より早く、ここに』隕石が落ちることになる。特に混沌は、トラブルの方を好むからな」
「最下層で地下1000mほどですよ? 地上に出ないほうが安全かも?」

 いま一つピンとこない様子のクリムが、首をかしげて提案した。

「生き埋めを免れたとしても、生きてるうちに掘り起こして貰えるのか、微妙な深さだよな?」

 皮肉っぽく返すアスキス。わたしの勘も地下に留まるのは危険だと告げているが、危険な試験体を地下4階より上に逃がさないための隔壁はどうする?

 地下5階に辿り着くと、アスキスは試験体の保管されている部屋へ向かった。並んでいるサンプルの群れにざっと目を走らせると、そのまま奥の区画へと進む。

「いいのがまだ残ってるじゃねぇか。使えそうだな!」

 水槽に6割ほど残ったショゴスを前に、アスキスは楽しげにも忌まわしげにも見える表情を浮かべた。アスキスが黒手袋に包まれた右手を一振りすると、分厚い水槽は綺麗に断ち切られ、黒い不定形の粘液が床へとあふれ出した。

『馬鹿なのかこいつは!? やめさせろ!!』
『うわぁ……やりやがった』
「ちょっとぉー!! なに考えてんですかッ!?」

 ベアトリスでなくても慌てるに足る光景。アニタでさえドン引きした思考が伝わる。

「元々こいつは奉仕するために造られた生物だ、存分に存在意義を果たして貰う。制御する手段はあるよなぁ?」

 悪魔めいた表情で笑うアスキス。事後確認はやめて欲しい!
 このショゴスは、スーツとして人を補助することだけを目的に調整されているはず。わたしの能力でどこまでやれるのか。噛み割った赤いアンプルを飲み、床を広がってくるショゴスに手を差し伸べる。ショゴスは触腕を形作り、わたしに接触してきた。

「……いけそう」

 わたしの思考に反応して、触腕や偽足を形成する。黒い水面から飛び跳ねる黒い小魚の姿を目にし、クリムが歓声を上げた。簡単な作業なら指示通りにこなせるはず。

「よーし。それじゃあ仕事の前の腹ごしらえだ!」

 アスキスは試験体サンプルの保管室に戻り、水槽の群れをぶち壊し始めた。
 正気じゃない! まともな手段では生還できないのは分かるけど!!

 アスキスの意図は把握できた。わたしは床を引き摺って連れてきたショゴスに、試験体との同化の指示を出す。この子には好き嫌いはないらしい。非常灯に照らされた室内に、血肉を啜る音と、時折骨や甲殻を砕く音が鳴り響く。

 荒事に慣れているはずのアニタでさえ、うんざりとした思考を伝えてくる。ベアトリスは浮かんですら来ない。ひょっとして、文字通り意識を失ったのかもしれない。阿鼻叫喚の地獄絵図を、クリムは指の間からこわごわ覗いていたが、いつの間にか右手で頬に触れ、肘を左手で支える「あらあら」のポーズで眺めている。食べ盛りの子供を見る奥さんか!?

 サンプルを喰らい尽したショゴスはサイズを増し、今では部屋いっぱいにまで肥大している。差し渡し5mはあるか。黒々としたそれは、光の加減で玉虫色に輝く体表に、複数の視覚器官を浮かべている。

 わたしのS-スーツに繋がった数本の触腕からは、今はまだ食事の満足感しか伝えてこない。けれどもしこのショゴスが反逆するだけの力を得たと知ったなら、ベアトリスの警告通り、わたしたちはひとたまりもないだろう。

 サンプル室を後にし、ショゴスを引き連れ地上へのエレベーターへと急ぐ。アンプルの重ね飲みで鋭敏になっているわたしの感覚は、廊下の角に隠れているヒトガタを見つけ出した。いつの間にここまで付いてきていたのか。巨大な異形の存在を引き連れるわたしたちを、怯えと好奇心をミックスした表情で見詰めている。

「ここに残っても危ないだけですしねぇ」

 クリムはさして苦労せずヒトガタを捕まえた。アスキスは一瞥しただけで、特に興味は示さない。見つけてしまった以上、ここで見殺しにすることもできない。

「さて。働いて貰うぞ!」

 クリムがバールでこじ開けたドアから、ショゴスがエレベーターシャフトに雪崩れ込んだ。うぞうぞと這い登り、4階上部で隔壁に突き当たる。鉄。鉛。コンクリート。ショゴスが複数の素材の感覚を伝えてくる。厚さは1mほど。わたしはショゴスが形成した鎚での打撃を始めた。

 効いていない訳じゃない。でも、打ち破るまでどれだけ時間が掛かるか。雑念を捨て、ただ地上の光景を思う。

「tekeli-li tekeli-li」

 ショゴスの鳴き声が聞こえる。もう発声器官を得たのか。

 集中が足りない。わたしは緑のアンプルを噛み砕き、さらに意識を高める。
 試したことの無い服用量だが、今やり遂げなければ永遠に次はない。外だ。外へ出るんだ!

 さらに複数の触腕が絡み付いてくる。関係ない。わたしは外に出たくて、ショゴスも同じことを望んでいる。
 黒い触腕の群れに運ばれたわたしは、シャフト内に迎え入れられる。目の前にはわたしの自由を阻む壁。
 鉄板を突き破り、コンクリートを掘り進む。出来た隙間に触腕を捻じ込み、力任せにこじ開ける。

「てけり・り! てけり・り!」

 わたしの喉から喜びの歌が響く。闇の中に極彩色が撒き散らされる。自由だ。ここを抜けさえすれば、わたしは自由になれる!

「『エニル!!』」

 3人分の呼び声に、呑まれ掛けていたわたしは、辛くもわたしの名を取り戻した。肩に添えられる手。振り向くと黒い粘液の塊は、わたしの大事な相棒をも絡め取り、飲み込もうとしている。

「よし! 風を掴まえた!」

 誰だっけ、この子?

 どこまでが自分だけの物なのか、上手く区切れない。黒く虹色に広がり切った意識の中で。最後にわたしは、一切を拒絶し混ざらずにひとり立つ、黒いドレスの少女の叫び声を聞いた。

            §

 素朴な旋律が聞こえる。どこかで耳にした記憶があるように思う。

「目が覚めた?」

 風が頬をなでる。夕暮れに染まる景色の中、草笛を吹いていた赤い肌の少女は、わたしを覗き込み微笑んだ。

「クリム……?」

 思い出した名前を口にし身を起こす。いい風だ。岩だらけの高台か。
 あたりを見渡すと、目の前にはすり鉢型の地形が広がっている。大量の川の水が流れ込み、水蒸気が立ち上っている。やがてここは湖になるのだろう。

「あ……隕石か」
「思ったより大きかったみたいだねぇ」

 途切れた記憶が繋がってゆく。もう地下の空間は埋まってしまっているだろう。『旧き鍵』が形を残していたとしても、湖の底をさらに掘り進んで引き上げるのは、人の手には余る大仕事だ。

「アスキスは?」
「わたしが起きたときにはもういなかったよ」

 S-スーツはわたしの身体を申し訳程度に覆うくらいしか残っていない。露出した肌には、ところどころ火傷のような痕が残っている。危ない所だったか。服を残して人間だけを攫うことさえできる、名付けざられしものの力に救われた形だ。いつか借りを返す機会はあるのだろうかと考えかけたが、地下での出来事を思い返すと……やっぱり、会わずに済むならそのほうが良いかもしれない。

 視線を感じ振り返ると、背後の草むらからヒトガタが覗いていた。濃い灰色の瞳が、あふれる好奇心で輝いている。

 クリムが物問い顔でわたしの腰の拳銃を見るが、苦笑して首を振ってみせた。
 西の空からヘリが近付いてくるのが見える。
 爆音に驚いて、ヒトガタは草むらの中へ逃げ込んだようだ。

 空の色。
 鳥の鳴き声。
 風の匂い。
 木々のざわめき。

 世界は広い。面白いものはまだまだたくさんある。おっかなびっくりでも進めば良いよ。

 相棒の手を取り空を見上げると、わたしは迎えのヘリに手を振ってみせた。

                      ep.Myth Runners END


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